聖書自体が面白い

落語家の柳家小三治の弁。「落語はわざわざ面白く語らなくてもいい、落語の出し物自体がもともと面白いのだ。今の時代は、面白がらせる者が人気を集め、面白がらせるかどうかで評価が決まってしまう」。落語の出し物は面白いものが残ってきたのであって、それ自体に笑いの深みがあるということでしょう。
聖書の世界もそうです。聖書自体が面白いのです。外国人が落語を聞いても、最初は何が面白いか分からないでしょうが、日本と日本語に深くなじんでくると、その面白さが分かるようになります。聖書も最初は難しいと感じるでしょう。しかし、聖書の世界になじんでくると、その真理の深さ、遠大さ、崇高さ、ストーリーの展開の面白さ、そして秘められたユーモアもわかるようになります。そして、知れば知るほど、聖書の中に隠された宝は無尽蔵だということに気づかされます。なぜ2千年来読み継がれ、世界のベストセラーになっているのか、納得できることでしょう。しかも、聖書はあなたのいのちの行方と豊かさに関わることを教えているのです。
ただ、落語の世界もそうですが、聖書の話は、聞き手に「聞く耳」があるかどうかで、面白いと思う人とそうでない人に別れます。キリスト時代にも、「聞く耳」をもたず、心は鈍感で、聞いても悟らず、批判ばかりする人々もいました。しかし、「聞く耳」のあった人たちは、永遠のいのちの豊かさを味わったのです。
今日からまた、と新たな思いで聖書の学びを始めましょう。「聞く耳」と「柔らかな心」で、「隠された宝」を掘り当てて欲しいと思います。特に、創世記をじっくり読まれることをお勧めします。創世記が分かると、聖書全体の流れや、なぜキリストの十字架が必要だったのかなどが理解できるようになります(教会はその学びのお手伝いをしたいと思います)。また、御言葉を実践する楽しさも味わいましょう(そのお手伝いもしたます)。