神の存在は証明できるのか

【問1】神は本当に存在するのでしょうか。また、それをどうやって証明できますか?

神の存在を人間の理屈で、疑う余地なく証明することは、厳密には不可能です。古くから神の存在証明は数々試みられてきましたが、客観的な証明は打ち立てられませんでした。だからといって、それで神が存在しないことになるのではありません。同様に、「神が存在しない」ことを客観的に証明した人もいないからです。神の存在にしろ、その決定的な証明方法はありません。それは、世界の科学者・知識人に、神を信じる人もいれば信じない人もいることからしても明らかです。
では、なぜ不可能なのでしょうか。

【1. 神の存在・非存在は証明の対象ではなく、信仰の対象である】

人間の知性は、「存在しているものがどのようなものか」を説明することはできても、「それが存在するかどうか」を証明することはできません。存在するかどうかは証明の対象ではなく、信仰の対象なのです。
神が存在するとしたら、神はどのようなお方であるかを、聖書や目に見える創造世界の秩序などから説明することはできます。たとえば「神は愛で、全知・全能である」といったようにです。しかし、それは存在すると仮定したら説明できるというだけのことであって、そういう神が実在するかどうかは、また別問題です。説明できるから存在するわけではないのす。
あるいは、存在すると仮定した神を祈りや瞑想等で追究し、期待通りの奇跡や霊的体験を得たとしても、その神が「実存するはずの真の神」と同一存在である保証はどこにもありません。
たとえば「滝に三年あたって神を見た」という経済人がいますが、神とはそういう方法で見えるものなのか、見た神が本物の神なのか、何の根拠も確証もありません。
逆に、神の非存在を証明する場合も、まず神の存在を仮定して、その証明を始めなければなりません。そして「神が存在するとしたら、この世の現象や科学的事実と矛盾する。したがって神は存在しない」というふうに結論付けるわけです。しかし、それは自分が仮定した神が、自分の考え方や理屈には会わなかったということにすぎません。人間の理性を越えた神が存在する可能性を、否定したわけではないのです。たとえば、「愛なる神がいるなら、なぜ私はこんな目に会うのか」という人が時々いますが、それは「無条件に人間を甘やかす神」は存在しないことを証明しただけで、「真の愛なる神」の存在を否定する証明ではありません。
つまり、神の存在・非存在は証明不可能なのであり、そして証明不可能なものは信仰の対象なのです。

【2. 神の存在は人間の理屈に先んじる】

それにもかかわらず、人間は、理屈で説明できないものは存在しないと考え、存在するものは必ず理屈に適っていなければならないと信じる傾向があります。しかし、「存在」は人間の理屈を越えています。理屈は存在のいわば従者です。つまり、人間の理屈に合おうが合うまいが、存在するものは存在するのです。神の存在もそうです。
この世には神が存在した方が理屈に適っている現象と、とても神が存在するとは思われない現象があります。しかし、それらも結局は神の存在・非存在の情況証拠でしかありえません。
法廷では、必ず証人や物的証拠などの客観的証拠が求められます。ところが、どれだけ客観的に筋の通った判決が下ったとしても、それは法的判断であって、必ずしも事実とは限りません。極論すれば、法廷とは理屈による法律上の勝ち負けを争う場であって、事実を争う場ではないのです。殺人犯はたとえ裁判で無罪を勝ちとっても、殺人犯である事実には変わりなく、無実の人は有罪判決を受けても、無実である事実に変わりはありません。法的には客観的証拠になりえても、事実の前には情況証拠に過ぎないのです。理屈で何を言おうと、事実を変えることはできません。
神の存在に関しても同じことが言えます。人間の目には客観的に見える証拠も、神の存在の前には情況証拠でしかありえないことです。
「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト記 3章14節)神は自らをそう呼ばれました。ですから聖書は神の存在証明に時を費やさず、「神はおられる」ことを自明のこととして、「神は初めに天と地を創造した」と語り始めるのです。