神の存在を確信するには

【問2】私はクリスチャンですが、実は神様の存在を確信できないで苦しんでいます。パウロがイエス様に出会ったような奇跡的な体験が私にはなぜ与えられないのか、と思ったりします。

人間とは不思議な生き物です。疑い始めればこの世に確かなものは何一つないのに、「信じる」ことによってしか生きていけない存在です。不信に溢れる人間社会も、基本的には信頼で成り立っています。神と人間。人間と人間の人格的関係も、厳密に言えば、「知る」ことではなく、「信じる」ことで成立するのです。たとえば結婚。多くの結婚生活が裏切りと争いに満ちています。私たちも裏切られないという保証はありません。将来のことは分からないのです。しかし、この人だけはと信じて結婚します。信じなければ何も始められないからです。
私も、クリスチャンでありながら、神の存在を確信できず、苦しんだことがあります。結局、私が行き着いたのは、次のことでした。

【1.「信じる」は「知る」に先立つ】

「確信できない」とおっしゃるあなたには愚かに響くでしょうが、確信を得るためには、やはり神の存在を信じることから始めなければなりません。信じることからすべてが始めるのです。
信じるとは、客観的な証明や奇跡的なしるしがなくても受け入れることです。確信を得るために証明や奇跡を求めていけば、あなたはさらに苦しくなるでしょう。神の存在あるいは非存在の客観的証明は不可能ですし(問1「神の存在証明」)また、たとえ奇跡的・霊的体験によって主観的な確信を得ても、また新たな霊的(感情的)体験を求めて心は揺るぎます。確信にいたるためには、信じることから始めるほかないのです。
信じるという意志の行為は、理性にとっては確かに愚かなことです。しかし、人間理性は全知全能ではないのですから、信じることは、むしろ人間存在に本質的に備わった崇高な行為だと言えると思います。信じることで、理性の領域外の世界にはばたくことができるからです。しかし、信じない態度は自己敗北的です。疑っている自分自身をすら信じられなくなり、世界がせばまっていきます。
神は、「信じる」ことによってはじめて知ることのできるお方です。信ぜずして、神の愛、聖さ、全知全能の力を体験することはできないのです。

【2.肯定的なことを信じる時に生じる否定的な疑いを恐れてはならない】

信じようとするかぎり、疑いがつきまとうのは当然のことです。全ての疑いが晴れ、全てのことを理解し、全て知り尽くして信じるのではありません。そのような日は永遠に来ませんし、また知り尽くしたら信じる必要もないのです。ですから、心に疑いや疑問を秘めつつ信じていいのです。「信じる」とは、その疑いとの戦いです。疑いを恐れず信じることを通して、確信は生まれて来るのです。疑いがあるから信じていないのだと、考える必要はありません。
疑いに攻められるくらいなら、いっそのこと信じない方が楽でしょうか。いいえ、信じなければ信じないで、今度は逆に「神は本当は存在するかもしれない」という疑いに苦しめられることになります。

【3.自分の方法ではなく、神の方法を受け入れる】

「神様、本当におられるのでしたら、今、私の目の前でちょっと光ってください」といった方法では、いつまでたっても確信は得られないでしょう。それは、自分の方法を神に押し付けることだからです。
確信を得るには、自分の小さな頭に神を収めようとする傲慢さを悔い改め、神様の方法に自分を従わせることです。神には、人間の理屈に合わせて存在し行動する義務はありません。神が人間に求めておられるは、頭で神を認識し理解することではなく、むしろ十字架という愚かさを通して神の愛と力を示し、信じるものを救おうとされました(コリント人への手紙 ? 1章)。神は、神の前にへりくだり、神に従う姿勢をもつ者に、応答してくださるのです。