クリスチャンの悲劇的な死を見れば、神の存在も愛も信じられないが・・・

【問8】祈っている真っ最中に教会の屋根が落ち、多くのクリスチャンが死ぬという事故があった。こんな悲劇が起こると、神の存在も神の愛も、とても信じられない。

実際、自業自得では片付けられないような不条理なことが、クリスチャンにもいかなる宗教を信じるひとにも、そして神を信じない人にも起こります。何々を信じているから、決して事故に遭わない、病気にかからない、死なない、ということはないのです。例えば、東京に大震災が起これば10万人以上の死者が出ると予測されていますが、ある特定のグループに属する人は災害に遭い、別のグループに属する人は遭わない、ということはありえません。つまり、結論を言えば、質問の事故は別に何かの真理を否定したり証明したりしているわけではないのです。

【1.神が存在しないことの客観的証明にはならない】

祈っている時に天からお金が降ってきても、それが神の存在証明にならないのと同様、その事故も神の非存在を証明するものになるわけではありません。逆に尋ねますが、無心論者だけが乗った飛行機が墜落したり、教会で祈っている時に人々が癒されたりしたら、あなたはそのことで神の存在を信じるでしょうか。おそらく信じますまい。最初から神を信じない人には、そのような事件や事故も、神の存在を信じさせるに足るほどの要因にはならないからです。
私たちが日常生活には、神が存在するとしか思えないような現象もありますし、逆の現象もあります。そうした個々の現象や出来事は、個々人の主観的な確信の根拠にはなっても、神の存在・非存在の客観的な証明にはなりえないのです。

【2.神が愛でないことの証明にはならない】

神の愛は人知を越えています。たとえ理解できないようなことが起こっても、神がそのひとり子イエス・キリストを私たちに与えるほどに愛して下さったという事実は変わりません。そのキリストが私たちの罪のために十字架にかかって下さったという歴史的事実が、いかなることが起こっても、神は愛であることを保証しているのです。
では、次の質問のような事故はどのようにとらえればいいのでしょうか。

?何事にも定まった「時」がある

人間の営みには神によって定められた「時」があり(伝道者の書3章1節〜8節)、人間の目には不条理・不可解であっても、神には最良の時であることもある、ということを理解しなければなりません。すべてのことは、愛なる神のみ手にあるのです。

?堕落世界の不完全生の犠牲

アダムが神に背いて以来、人間は罪の世界、不完全な世界、朽ちゆく世界(エントロピー増大の世界)に住んでいます。教会の屋根はそうした世界にあって落ちるべくして落ちたのであり、死んだ人は堕落世界の犠牲者だということができます。彼らが、特別罪深かったり、呪われていたりしたわけではありません。誰でもいつでもその犠牲者になり得ます。それがクリスチャンであっても不思議ではありません。守られたら感謝です。死んだらまだ救われていない人の身代わりとなったと考えるべきなのです。

?悔い改めの機会

人間はいつかは死ぬのであり、そしていつ死ぬか分からない存在です。人の悲劇に接したときは、事故の生き方を改める機会とすべきなのです。イエスは、シロアムの塔が倒れて死んだ18人のことに言及して、「あなたがたも悔い改めなければ、同じように滅びる」(ルカの福音書13章3節)と語っておられます。私たちが滅びないのは、私たちの悔い改めを待っておられる神の忍耐と寛容のゆえです。その忍耐と寛容を軽んじてはなりません。

最後に、それでもなぜわざわざ「祈っている時に」なのか、と思われる方に。おしゃべりしたり、食事したりしている時であれば、問題なかったことなのでしょうか。クリスチャンは祈っている時だけが、特別、きよいわけではありませんが、遊んでいる時に死ぬよりは、祈っている時に天に召されるほうが、クリスチャンとしては望ましくも思います。
しかし、結論として言えば、どんな死に方をしたかが問題ではなく、死んでどこへ行くかが問題なのです。立派なしを遂げて地獄へ落ちるより、悲惨な死に方をしても天国に召される方が、はるかに勝っています。