神が予めすべてを定めておられるなら、人間の自由はどこにあるのか

【問7】もし神が私たちのすべてを、結婚相手から職業、救われるか救われないかということに至るまで、予め定めておられるというなら、私たちの自由はどこにあるのか?もし自由があるというなら、神が予め定められたことはどうなるのか?

神は、人間を自由意志によって行動する人格的存在として創造されました。人間が神の操り人形ではなく、自由な存在であることこそ、神の創造の完全性を表す重要な特性です。しかし同時に、神はその大権(摂理・みこころ)によって、人間の自由意志を越えて、すべてのことを予め定めておかれました。
「人間がどう行動するかは予め定められている」
「人間には自由があり、その行動に対して責任が生じる」
聖書はこの互いに矛盾することが、両方とも真実であることを前提にしているのです。たとえば、ユダがキリストを裏切ることは、彼自身の意志で選びとった行動であると同時に、予め定められていたことです。
この神の大権と人間の自由の対立に、決定的な解決法はないようです。数百年にもわたり、予定説に立つカルビン派、自由を強調するアルメニアン派などの学者たちが論争してきましたが、今なお決着のついていない問題です。
私はただ、信仰によって次のように受けとめるようにしています。

【1.この問題は神秘の領域に属する】

聖書に記されたすべてのことが合理的なのではありません。しかし、不合理だからといって、神の権威がぐらつくわけでもありません。創造主は被造物の頭脳が収まるように、つまり人間の都合や理屈に合わせて存在しなければならない義務はないのです。この世界をどのような構造に創造するかは、創造主の自由でもあります。ですから人間の理性で説明できないことがあって当然で、むしろ無理に説明をつけようとすることの方が危険です。説明できないことを説明しようとすると、聖書にはないことや聖書に反すること、あるいは半分だけの真理を唱えるという誤りをおかしてしまいます。
理解を超えたことは、神秘として受けとめる勇気も、時には必要です。

【2.神の時空を超えた大権と人間の時空の中での自由】

神は、時間と空間を越えた存在ですが、人間は、三次元の時空間に閉じ込められた存在です。人間は、三次元の世界で自由を十分に発揮することが出来ます。一方、神はその三次元の世界の外側から、人間の過去・現在・未来の自由な営みを、同時にご覧になることができます。神は人間の自由を否定するのではなく、人間がその自由を使って何をしているのかを見て、その自由を越えて個人の人生や人類の歴史に介入されるのではないかと思います。
人間自身は自由を発揮して行動しているように思っていても、実際には、その自由は因果関係を決定する様々な要因によって支配されているので、人間は予め方向付けられた行動をとることになる、という考え方もあります。

【3.神の大権と人間の自由は相互補完的である】

私は学生の時、いくつかの宗教を試み、神の存在追究に苦しみ果てた上で、聖書の愛なる神を選びとり、クリスチャンになりました。私は、自分の自由意志でキリストを選んだのです。ところが私に選ばれたはずのキリストは、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだのです」(ヨハネの福音書15章16節)などとのたまうではありませんか。理屈では納得いかないことです。しかし私はそこに、人間の理屈と自由意志を越えて働く全能者の愛を感じとりました。いわばそれは、神の大権と自由意志の対立が「神の愛」において解消(止揚)されるという体験です。
人間に自由があるかぎり、自分の言動に対して責任があり、神のさばきを受けねばなりません。しかし、神は愛によって「すべてのことを働かせて益とする」道を用意し、ご計画によって「十字架」を予め準備しておられたのです。神の大権と人間の自由は、愛において、対立というより相互補完の関係にあるのではないでしょうか。