神はなぜ罪を犯さない完全な人間を造らなかったのか

【問6】神が人間をお造りになられたのなら、どうして罪を犯すことのない完全な人間に造ってくださらなかったのですか?そうすれば、私たちは病気や老衰や死などに苦しめられることもなく、幸福になれたのです。神の愛に矛盾していませんか?

私事で恐縮ですが、私は学生時代、あるクリスチャンが創業したグンゼという企業から奨学金をもらっていました。ところが、覚え始めたパチンコが面白くて、奨学金の全額をそれにつぎ込むようになりました。その結果、当然のことながら、お金が足りなくなって、アルバイトのかけもちをしなければならなくなりました。もちろんパチンコをするために勉強時間はさらに減り、いや、何よりもまず精神的に堕落して、勉強する意欲を失っていきました。そして留年。奨学金は1年で打ち切られてしまいました。あの時の惨めさは今でも忘れられません。
その惨めさとはどこから始まったのでしょうか。そうです。本来奨学という正しい目的をもったお金を、別の間違った目的のために使用したことからです。奨学金を下さる方への裏切りからです。あなたにも似たような経験がおありではないでしょうか。
さて、人間は不完全なのでしょうか。

【1.神は人間を完全なものとして創造された】

神様はご自身のかたちに似せて、人間を創造されました(創世記1章27節)。つまり、神が完全なように、人間も霊的・人格的に完全な存在として造られたのです。そして、その完全さを具体的に表現するために肉体を授け、神のご意志に従ってこの地上を正しく支配するという目的と使命を与えられました。こうして神と調和した幸福な人生を約束されていたのです。

【2.神は人間に自由意志を与えられた】

しかし、神は、人間を単なる操り人形やロボットとしてお造りになったのではありません。人間に自由意志を与え、その自由意志で神の意志に従うことを選びとっていくようにされたのです。神に自動的に従うのでは、人間は人格的に完全であるとは言えません。自由意志で行動できてはじめて、霊的・人格的に完全であると言えるのです。
もちろん、神が与えられた自由「何でもできる自由」ではありますが、「何をしても許される自由」ではありません。その自由は、神の御意志に従い、この地上を正しく支配し管理するという目的に「枠付けられた自由」なのです。そして、その枠内で自由を行使し、正しいことを選び取っていくならば、人間は争いや憎しみのない幸福で平和な生活を営むことができるようになっているのです。自由意志で行動できてはじめて、霊的・人格的に完全であると言えるのです。
もちろん、神が与えられた自由は「何でもできる自由」ではありますが、「何をしても許される自由」ではありません。その自由は、神のご意志に従い、この地上を正しく支配し管理するという目的に「枠付けられた自由」なのです。そして、その枠内で自由を行使し、正しいことを選び取っていくならば、人間は争いや憎しみのない幸福で平和な生活を営むことができるようになっているのです。
それは、ちょうど私に与えられた奨学金が「何にでも使えるお金」であっても、「何に使ってもよいお金」ではなかったのと同じです。私も「奨学」という枠内で使えば、幸いなる学生生活が送れたはずでした。本来の目的から外れてパチンコに使ったがために、堕落し、惨めな結果に至ったのです。

【3.人間は自由意志で神に反逆し完全さを失った】

ところが、最初に造られた人間も、本来の目的から外れた自由の使い方をしていました。神の御意志に逆らい、自分の欲望を遂げることを選び、人間本来の使命を放棄してしまったのです。
このため人間の霊的・人格的完全さは破壊され、自由は肉的欲望に縛られたものになってしまいました。その結果が争いであり、病であり、死なのです。
神は最初から罪を犯す不完全な人間を造られたわけではありません。むしろ完全な姿に創造し、幸いな人生を歩むよう願っておられました。にもかかわらず、人間はその神の愛に反抗して、罪の道を選びとったのです。人間の側からすれば、あれほど完全に造り、エデンの園という完全な環境に置いてやったのに、なぜ反逆したのかと思われるのではないでしょうか。
しかし、いずれにせよ、私たちには、もう一度、本来の道に戻っていく道が与えられてます。それはイエス・キリストの十字架を選びとることです。そして、その選択もあなたの自由意志にかかっているのです。