宗教と科学の矛盾をどう受け入れるのか

【問10】科学的な立場からみれば、宗教は明らかに迷信です。この科学の時代に宗教を信じてる人は、科学と宗教の矛盾をどのように受け入れているのですか?不思議でなりません。

面白いのは、科学を信頼する人の間には宗教を否定する人が多いのに、正しい宗教を信じる人の間には科学を否定する人がいないということです。実際、クリスチャンで科学者という人は、数多くいます。
クリスチャンはなぜ科学を否定しないのか。それは宗教と科学が矛盾するものとは考えていないからです。実際、両者にはいくつかの共通点があります。

【1.事実に基付いている】

事実の尊重は、科学の専売特許ではありません。少なくともキリスト教は、歴史的事実や客観的事実を重んじます。たとえば、キリストの実在、十字架による処刑、復活には、他の歴史的人物や事件と同程度の事実性およびその証拠があります。

【2.人間理性を重視する】

宗教は科学同様、感情の所産ではありません。キリスト教の真理は、事実の理性的追究を無視したものではないのです。

【3.普遍性を追究する】

日本だけで通用する科学というのがばかげているように、水子供養や先祖供養をしないとたたるなどというような、日本人にしか通用しない宗教もばかげています。真の宗教は科学同様、いつでも、どこでも、通用することを第一とします。

では、相違点は何でしょうか。
ひとことで言えば、《扱う領域が違う》と言う事です。
科学は、実験できる事象を対象にし、数値などで測定・法則化できる領域を扱います。宗教は、科学のそうした領域を承知した上で、人間の感性や理性の及ばない実験不可能な領域、つまり人間と目に見えない神との関係を扱うのです。例を挙げれば、人生の意義・価値・目的や倫理などです。領域が違うのですから、科学を宗教の立場で批判するのがおかしいのと同様、宗教を科学の立場で批判するのも間違っているのです。
たとえば、聖書は科学の領域を扱った書ではないので、科学の方法論だけで読めば矛盾ばかりが目に付いて、その中に隠された奥義は決して悟れないことでしょう。また、神の存在は実験不可能な領域にあるわけですから、科学によって神の存在証明ができないのと同様、神の非存在も証明できません。
しかし、この両者の領域の違いを認識し、それを使い分けるなら、宗教的人間であると同時に科学的人間であることは、ごく自然なことになります。もともと科学は神の創造の偉大さ、美しさ、秩序を明らかにする学問として発達したのです。
では、なぜ宗教と科学が対立していると見なされるようになったのでしょうか。それは、ひとつには中世の教会の科学に対する偏見があります。いわば領域の区別ができなかったのです。特にガリレオの宗教裁判は、宗教と科学は対立する、という誤解を象徴的に植え付けてしまいました。
しかし、それ以上に重大なのは、19世紀以降の科学中心主義です。それは、科学は万能であり、科学の推進は絶対善である、という一つの思想を主張します。その根底には・・・

?物質および物質に内在する力だけが存在する。

?心の中の現象を含め全ての現象は、物質とそれに内在する力や法則だけで説明できるという無神論的ドグマがあります。

これはいかにも科学のように見えますが、実際は実験も証明もできない独断的世界観の一つに過ぎません。しかし、その無神論的ドグマが科学の名のもとに主張されてきたので、あたかも宗教と科学は対立するかのような印象が人々の心を支配してしまったのです。自然や人間の環境を破壊してきたのは、科学ではなく、実はこの科学主義です。
科学と宗教の不幸は、宗教がその偏見を科学の領域に持ち込んだこと、そして科学がその原理で実験不可能な宗教の領域を踏み荒らしたことにあります。人間が科学と宗教の領域を混同しなければ、両者は共存して、その正しい力を発揮することができるのです。
塩が「白い」という性質と「辛い」という性質が矛盾しないように、一人の人間のうちにある「宗教性」と「科学性」も矛盾しないのです。