なぜキリスト教でないとダメなのか

【問14】世界にはたくさん宗教がありますが、結局は同じ神を信じているのではないでしょうか。なぜキリスト教でなければダメなのですか?

日本人は、宗教的には常識に寛容な、悪く言えば非常にルーズな国民です。民主主義の原則が神々の世界でも有効かであるかのように、どの神様も平等に扱います。そしてその神々の中から、自分の考え方や経験や感性や好みにあったものを、自分の神とするのです。目的は、その神から物的、精神的御利益を引き出すことです。神々も人間の様々な要求に答えなければならないので大変なことでしょう。いろんな名を付けられたり、木や石、紙や金属にとじ込められたり、ない袖を振らされたり、同じ言葉の繰り返しを聞かされたりして、人間に奉仕しなければなりません。結局、宗教とは人間の都合に合わせて作られたものと言われても仕方がないようです。
実は、キリスト教が宗教でないと言われるのは、この点においてなのです。宗教が人間を起源とする教えだとすると、キリスト教は神御自身を起源とする神中心の教えです。諸宗教との決定的な違いは、次の三点にあります・・・

《1.啓示信仰》

もしあなたが身に覚えのないことで逮捕され、裁判の結果、有罪になったとします。しかし、たとえ有罪判決を受けても、何が真実であるかはあなただけが知っています。他人がどう推理してどんな結論を下そうと、無罪である事実に変わりはありません。
同様に、人間が神についてどのように推理し、どんな結論を下しても、やはり神のことは神にしかわかりません。「神とはこういう存在であるはずだ」というのは、あくまでも人間の勝手な推量にすぎないのです。実際、人間はどうしたら神を正しく知ることができるのか、その方法すらわからないのです。ということは神のほうから情報をくださらない限り、神を知ることはできないということになります。
聖書は神の情報です。人間の側から感性的、理性的、瞑想的に推理した情報ではなく、神自身が提供された情報なのです。

《2.創造神信仰》

その聖書が最初に語るのは、初めに神が天地万物を造られたということです。クリスチャンは、神が「無」からこの宇宙を創造されたことを信じます。神以前に何かが存在したのではないのです。
ですから創造主なる神がこの宇宙の主人公であって、人間はその被造物にすぎません。神は、アラジンランプの大男のように、人間に仕える存在ではないのです。御利益とは関係なく、神が全てのものの創造主なるがゆえに、人間の方が神に従い、仕えねばなりません。また、神ご自身ではなく、石や紙や木などで作った像や御守り、あるいは人に向かって拝むことは、創造主に対する最大の冒涜になります。それらは、もともと神の被造物にすぎないからです。

《3.人格信仰》

聖書の神は、人格神です。単なる「宇宙の大法則」や「全ての存在の根源」「原理」などといった、非人格的な存在ではありません。人間が人格的に、つまり感情的に、理性的に、霊的に、言葉で交わることのできるお方です。子として自由に「天のお父さま」と呼びかけられるのです。私たちは、この完全にして愛なる人格に信頼するのです。ですから機械的な儀式やお題目の繰り返しは、人格なる神にはうるさいだけです。
聖書はまた、キリスト以外に救いはないと宣言しています。というのは、キリスト御自身が神であり、その人格そのものが真理であり完全であるからです。どの宗教の教祖も、尊敬されはしても、礼拝されることはありません。彼らは立派な人間ではあっても、やはり救いや悟りを必要としている人間にかわりないからです。ゆえに、彼らもまた真理を求め続けたのです。
しかし、キリスト教では、キリストご自身が信仰の対象です。キリストは真理を発見した人ではなく、自身が真理そのものです。キリストの救いとは、人間が作り出した救いではなく、神から差し伸ばされた救いなのです。