普通のキリスト教と異端のグループとはどこが異なるのか

【問16】キリスト教系の新興宗教(異端)といわれる「エホバの証人」や「モルモン教」や「統一教会」などと、普通のキリスト教徒はどう違うのでしょうか?

ハーベスト・タイムの総主事の中川師は、ホタテが大好きで、あるとき北国に出かけ、土産にとホタテを買って帰りました。ところが、家でよく見ると「ホタテ」と大書された下に小さく「風珍味」と書かれているではありませんか。何とも、がっかりしたとのことでした。
当世は偽物が大はやりです。食品。衣類、絵画、アクセサリーから、はては人間にいたるまで、まがいものが跋扈しています。「真理」の世界もまた例外ではありません。「なんとか風」と小さくても表示してあれば、まだ可愛気がありますが、本物を自称する偽物が多いので実にやっかいです。しかし、偽物が出るのは本物があるからであり、本物には偽物が達し得ない真価があるということです。キリスト教とキリスト教系新宗教との関係も、またそのようなものです。
では、どこに違いがあるのでしょうか。本物と偽物を見分ける三つの基準があります・・・

《1.聖書は誤りなき、唯一の「神の言葉」である》

聖書のみが私たちの信仰と教義の拠所であり、聖書だけで完結しており、これ以外に絶対的権威のある神の啓示はありません。この基準が崩れると、人々は自分の勝手な思いつきや解釈や体験を、神からの啓示として主張し始めます。聖書からは逸脱しているのに、聖書と同じ権威を持つ経典、あるいは聖書以上の絶対性を持つ経典を作り出すようになります。
ものみの塔(エホバの証人)の「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」、統一教会の「原理講論」、モルモン教の「モルモン経」などがそれです。いずれも聖書を信じてはいますが、自分たちの経典の裏付けにすぎないか、聖書だけでは不十分、不完全だとしています。またエホバの証人などのように、聖書を自分たちの協議に合うように故意に曲解・誤訳させて使っているグループなどもあります。(「新世界訳」)
そのほか、聖霊が語られたと主張して、聖書とは矛盾することを唱える(例えば、キリストの再臨の日を特定する)グループ、聖人の言葉などに神の言葉と同じ権威を持たせるグループも、「聖書のみ」という基準に反しているといえます。

《2.神は三位一体であり、キリストは神であり人である》

神は、唯一なる神であり、また父、子なるイエス、御霊の神格において存在する三位一体の神です(三位一体については別頁)。またイエスは、神の神性と真の人間性とを有する存在です。これは、私たちの理性にとっては神秘ですが、神は実にそのような存在として御自身を啓示なさったのです。
キリストの完全な人間性と神としての完全性が否定されると私たちの聖化が不可能になります。しかし、前途の三つの異端はいずれもそれを否定するか、イエスを多くの神々の一つにすぎないとします。

《3.救いはただ信仰のみによる》

キリストの十字架は救いの完成であり、人が救われるのに必要なことは、その十字架を信じる信仰のみであって、ある特定の律法(戒律)の遵守や善行や道徳的努力によるのではありません。この土台が崩されると、クリスチャンは救いの確信をもつことができなくなります。努力によって道徳的完全に達することは不可能ですし、正しい行いを積み上げても、これでよいという完成点がありません。
ものみの塔の人たちが輸血拒否などの律法を守ることに命をかけながらも、なお救いの確信がないのはこのためです。また統一教会は、キリストの十字架は不完全であったとし、文鮮明(米国で脱税のため投獄された)という再臨のキリストを受け入れてはじめて、救いが完成されるとしています。
そのほかの教会の中にも、救われるためには信仰だけではなく、行いも必要であると説くグループがありますが、それはキリストの死の意義を半減させる教えです。キリストの犠牲的死を「無駄死に」にしてはなりません。