クリスマスは根拠がないか

【問19】クリスマスはもともと異教の祭りに起源があり、イエスの誕生日も冬ではありえないと言われています。クリスマスを祝うのは聖書的ではないのではありませんか?

確かに、クリスマスは古代の異教徒の冬至祭に端を発していると言われ、サンタクロースやクリスマスツリーも聖書から出てきたものではありません。また、キリストの生誕も12月25日である聖書的根拠も全くありませんし、おそらくそんな冬の日ではなかったでしょう。
しかし、だからといって「エホバの証人」のグループのように、「聖書には書かれていないから、非聖書的である」と即断するのは早計です。むしろ、クリスマスは間接的に聖書的な意義を多分に含んでおり、積極的に祝うべき理由を十分にもっていると考えます。
では、どういう点でクリスマスは聖書的といえるでしょうか・・・

《1.神の子が人となって来られたことを祝う》

第一に、神のひとり子イエスが人となってこの世に来てくださったことを記念し、特別に日を設けて神の愛に感謝するのは、聖書の主旨にそったことです。
「神が人となられた」ことは、神の愛の最高の表現であり、歴史上の最大のイベントです。重要なのは、生誕の正確な日時ではありません。神が人となってお生まれになったという歴史的事実が重要なのです。その事実を記念して祝うことは、決して非聖書的なことではありません。

《2.異教徒的なものが聖化されている》

クリスマスは異教徒的な文化・風習をあがない、聖化したものとして、重要な聖書的な意義をもっています。聖化するとは、文化から世俗的・異教的な要素を完全に取り除き、聖書的な新しい意味付けをして、主の栄光のために生かすことです。
クリスマスは、古代の異教徒の冬至祭を聖化したものと考えていいと思います。彼らは、太陽が最も遠く、夜が最も長くなる冬至の頃、遠ざかった太陽を取り戻すための祭りをしていました。一方、キリストは、「暗闇の中に座っていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰に座っていた人々に、光が上った」(マタイの福音書4章16節)と言われるお方です。ここにキリストと冬至祭との結び付きが生まれます。つまり、世を照らす「まことの光」として来られたキリストによって、太陽を取り戻そうとする異教徒の願いがかなえられたと考えるのです。このようにして異教的な冬至祭があがなわれ、喜びの祝祭にかえられたという意味で、12月25日はクリスマスにふさわしいと言えます。
異教的な習慣だからといって、それを全面的に否定し排除する必要はありません。特に、日本のように異教文化が日常生活のすみずみまで浸透している国では不可能ですし、民族感情をさかなでするだけです。しかし、聖化することはできます。形式は残し、中身は聖書的にするのです。例えば、正月は天地創造記念日、ひな祭りは乙女祝福の日、盆はメモリアルデー、七五三は幼児祝福の日といった具合に。
かつて冬至祭であったクリスマスは、こうした異教文化を聖化する上での聖書的な指針であるとも言えます。

《3.伝道の機会となる》

最後に、クリスマスは最高の伝道の機会となっており、聖書の教えにもとることは決してありません。聖書はあらゆる機会をとらえて福音を宣べ伝えるように勧めていますが、クリスマスはその最大規模の機会といえます。クリスマスがなかったら、どれだけ多くの人々がクリスチャンになりそこね、あるいは教会から脱落していったことでしょう。不謹慎ですが、神の「救いの経済」からすれば、クリスマスは年に一度の「たましいのかき入れ時」ではないでしょうか。
ただ、警戒しなければならないのは、せっかく聖化されたクリスマスが、再び世俗化の波にさらされている現実です。日本では、全くの遊興と商売の日となっており、キリストの誕生日であることは冗談のネタにしかなりません。アメリカでさえ、クリスマスシーズンとは言わず、ホリデーシーズンと呼ばれるようになりました。クリスマスが聖書的かどうかを論じるより、クリスマスの聖書的意義を守らなければならないところに来ているのです。