三位一体は正しいか

【問18】聖書には「三位一体」という言葉は出てきません。「三位一体」は本当に正しいのですか?

「罪責感」「殉教」「受難」「救済論」「終末論」などといった言葉は、聖書にはありません。しかし、その言葉が意味している概念(考え)は聖書にあります。「三位一体」もそうです。言葉(用語)が問題なのではなく、その概念が聖書にあるかないかが問題なのです。神は唯一であり、同時に同質の三つの神格として存在するという三位一体論は、既に四世紀に聖書の教えとして確立されています。しかし、それ以降も三位一体を否定するグループが、興っては消えていきました。三位一体が受け入れにくいのは、人間の論理には矛盾していて、理性的にも感覚的にも収まりが悪いからでしょう。
しかし、忘れてはならないのは、神は人間の論理に合うように存在されるのではない、ということです。私たちは人間の側の論理で神の存在の仕方を規定したり、神のなされることの善し悪しを裁定したりしますが、それは主客転倒で、被造物の方が創造主の論理を受け入れなければならないのです。神が自ら三位一体で存在しておられるのを、それは人間の理屈に合いませんと、異議を唱えることはできません。三位一体に限らず、天地創造、神の摂理と人間の自由、処女降誕、十字架の贖(あがな)い、復活なども神の論理を優先せずには、とても理解できることではありません。
では神の論理を優先させるとはどういうことかというと、聖書に書かれていることを、不合理に見えても、創造主の論理(言葉)としてそのまま受け入れることです。

《1.聖書は、神は唯一である、他に神々はいないと語っている》

「わたしが主である。他にはいない」(イザヤ書45章18節)「私たちには父なる唯一の神がおられる・・・・・・」(?コリント人への手紙8章6節)「あなたは神はおひとりだと信じています。立派なことです。」(ヤコブ書2章19節)その他にも、神の唯一性を示す言葉はたくさんあります。唯一神信仰は、キリスト教が仏教や神道などとは異なる際立った特長です。

《2.聖書は、父なる神、子なるイエス、そして聖霊を、神格をもつ存在として規定している》

父なる神が神であることには異論がないでしょう。
では子なるキリストはどうかというと、100パーセント神であり、同時に100パーセント人間となられた方です。したがって、イエスの神性と人間性の両面を表す言葉が、聖書には数多く出てきます。イエスの人間性に関する記述の部分だけを強調して、イエスの神性を否定するのは間違いです。イエスの神性を示す記述としては、トマスに神と呼ばれ(ヨハネの福音書20章24節)、また自らを神とされ(同8章58節)、人々の「礼拝」を受けている場面などがあります。
聖霊を神として表現し、神として崇めるべき対象としている聖書の箇所も枚挙にいとまがありません。(?コリント人への手紙2章13節、ヨハネの福音書16章14節等)。

《3.聖書は、父、子、聖霊を一つとみなしている》

たとえば大宣教命令(マタイの福音書28章19節)の「父、子、聖霊の御名によって」の「御名」が言葉では複数であるはずが、単数形になっています。また、?コリント人への手紙13章13節(祝祷)のように、キリスト・父なる神・聖霊が同格に扱われている箇所もあります。キリスト自身も「私は父と一つである」と語られていますし、キリストと聖霊を同一視する言葉(「キリストの御霊を待たない人は、キリストのものではない」ローマ書8章9節)もあります。

以上の3つが聖書に書かれている神の存在の仕方です。聖書を異訳したり、断章したりして、人間の理屈につじつまが合うように作りかえられていない、ありのままの神の姿です。これを三位一体と呼ぶわけです。
聖書は、神がご自身を啓示された書物です。理性や感性では捕らえ難くても、そこに書かれてある通り受け取るのが信仰です。信仰で受けとめてはじめて、霊的な部分で理解できるようになるのです。三位一体もいわば、神秘の領域に属する隠された奥義です。隠された奥義とは隠されているがゆえに、信じることによってはじめて発見されるものなのです。
ただ私は、感覚的に理解するために、1+1+1=1ではなく、1×1×1=1というふうに三位一体をとらえています。