いい人でもキリストを信じないと救われないのか

【問25】近所のとても優しいおばあさんが、交通事故で亡くなられました。こんないい人でもイエスさまを信じていなければ、天国に入れないのでしょうか。また、十字架を知らずに死んだ場合はどうなるのですか?

人間的に立派な人が、キリストを受け入れることなく亡くなられると、私たちは何とも言えぬ複雑な気持ちになります。それは人間の目で見るからであって、神の聖い目から見れば全く別の結論が出てきます・・・

《1.聖書の原則》

聖書はこう語ります。

?「義人はいない。一人もいない」(ローマ書3章10節)

ある程度立派で正しい人はいますが、完全な人はいません。ある程度優しい人はいますが、四六時中優しい人はいません。もしそんな人がいるとしたら、私たちがその人のことをよく知らないだけでのことです。たいていの人は、1週間、同じ屋根の下で一緒に生活すれば、その欠点や嫌なところが見えてきます。どんなに立派な人でも、1ヶ月あれば十分でしょう。それでも足りないなら、1日24時間、1年365日、観察すればよろしい。なんという意地悪な見方だ、と思われるかもしれませんが、天国へ入るには、それほどまでの検査を受けても、一つの罪も欠点も見つからない完全な人格者でなければならないのです。それは、神がそうした聖い方だからです。

?「人が罪から救われるのは律法を守ることによるのではなく、キリスト・イエスを信じる信仰による」(ガラテヤ書2章16節)

泥が一滴入ったコップにどれだけ水を注いで薄めても、やはり汚染されたままの水であるように、どんなに良い行いを重ねても、一つの罪さえ消すことはできません。ではどうすればいいかというと、聖書はキリストを信じる以外にはないというのです。
キリストは12人の弟子と3年半、使徒ヤコブとは実の弟として20数年、寝食を共にしました。にもかかわらず、その人々は、キリストは完全な人であったと認めているのです。聖人と呼ばれる歴史上の人物は釈迦や孔子やマホメットなど数多くいても、その生涯ただの一度も罪を犯さなかったのはキリストだけです。そのキリストが私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、救いの道を開いてくださいました。キリストを救い主として信じるものは聖いと認められ、天の御国に入ることができるのです。これが救いの原理であり、どんなに立派に見える人でも、これ以外に天国に行く道はないのです。

《2.裁きは神の手にある》

この救いの原理は、どのような条件のもとでも変わることはありません。しかし、キリストを信じなければ救われないという原理と、あの人は信じずに死んだようだから救われていないという個別的な判断とは、分けて考えるべきです。あの人この人が救われていたかどうかの裁きや判断は、私たちが勝手に下すことではありません。それは神のなさることです。その人たちが行きを引きとる前に、神にどのような導きを受け、どのような決断をしたか、誰にも分からないではありませんか。
キリストを拒絶する人は救われません。しかし、その優しいおばあさんが救われたかどうかは、神のさばきの御手の中にあって、私たちの判断すべきことではありません。

《3.神の裁きは公平(ローマ書2章11節)》

救いの福音を聞くチャンスがあった者と、全くなかった者のどちらかを、神がえこひいきなさるということはありません。各々の状況に応じて、それにふさわしい裁きがなされます。福音を聞けない環境にあった人々は、次の基準で裁かれることになります。

?創造主なる神はその被造物によってはっきり知ることができるから、その神を神としてあがめないことは罪である(ローマ書1章19・20節)。

?人の心に刻まれた律法・良心に従わないことは罪である(ローマ書2章14節・15節)。

人の心には、不完全であっても良心があり、何が善であり悪であるかのある程度の倫理基準は備えられています(殺人を善と教える民族はないことからしても、人間には生まれつき共通の倫理があることが分かる)。それに従わないことは、罪として裁かれます。
律法を知らなかったという理由で無罪とはならないように、福音を知らなかったということで裁きを免れることはないのです。