人間の本性は善か悪か

【問22】人間の本性は善なのでしょうか。それとも悪なのでしょうか?

人間の本性に関しては、大別して三つの考え方があるようです。性善説と性悪説と、そして善でもなければ悪でもないという説です。
日本の神道や中国の孟子などは性善説をとります。神道には、人間は神の子孫であり、神と同体であり、死ねば神になるという考え方があります。神戸同体なわけですから人間は生まれつき善であり、その善なる体に外側から罪や汚れがついても、「みそぎ」によって清められると教えます。孟子は惻隠(あわれみ)の情が人間に備わっていることから、人間の本性は善と説きます。
しかし、人間は乳児のときから自己中心的で、放っておくと悪に傾きます。教えられなくても、盗んだり嘘をついたりすることを自分で始めます。だから人間の本性はどうしようもなく悪なんだと唱える人々もいます。それゆえ悪を封じ込めるために、人間社会には教育や法がかかせないのだと説きます。
いや、人間は心に善を求める性質があると同時に、一方では悪への強い傾向性と力を宿しており、性善、性悪では割り切れないものがあります。また、人間は、全ての人権・民族に共通した良心を備えており、何が善であり悪であるか先天的に知っている部分があるようです。
そこで、聖書は人間の本性をどうとらえているかを見たいと思います。

《1.人間は「神のかたち」(善)に造られた》

創世記1章には、神は人間を神に似るように「神のかたち」に創造された、と記されています。つまり人間は神と同様、人格的に完全で理想的な存在として造られたのです。そして神はご自身が創造されたものを御覧になった時、「それは非常によかった」とされていますから、人間は本来、善なる性向もった存在であることが分かります。

《2.人間の心に悪の原理が宿った》

しかし、人間は自分を善なる存在に創造してくださった神に反逆し、自ら自分の完全性を破壊して、罪=悪の力に支配されるようになりました。つまりこの時から、人間の心は罪の原理(悪への傾向性)の奴隷となったのです。
聖書は、「外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(マタイ23章28節)、あるいは「わたしは善をしたいと願っているのですが、そのわたしに悪が宿っているという原理を見い出すのです」(ローマ書7章21節)と語っています。人間の内に悪を行わせる力が宿っており、善を行う力がない、という点では性悪と言えましょう。
しかし、人間はそれでも心に善への強い欲求と良心を残しています。それは、人間が本来の「神のかたち」をすべて失ったのではないことを示しています。

《3.人間は善の原理を回復することができる》

キリストは十字架の死と復活によって、人間を罪(悪)の原理から解放してくださいました。悪の支配下にあった私たちの古い性質を滅ぼし、キリストにある新しい性質を与えてくださったのです。それは「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪の体が滅びて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためである」(ローマ書6章6節)「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(エペソ人への手紙2章10節)という聖書の言葉に記されている通りです。

人間は性悪であっても、悔い改めてキリストを心に受け入れるなら、最初の完全さと善の原理を取り戻すことができる存在なのです。そして、その善の原理とは、私たちの内に住んでくださるイエス・キリストにほかなりません。