排他的なキリスト教より柔軟な多神教の方が21世紀の社会にふさわしいか

【問23】世界には様々な宗教があるのですから、クリスチャンも自分の神だけを絶対としないで、ほかの神々の存在を受け入れるべきではありませんか?ほかの宗教のよいところを認め合ってこそ、世界は平和共存できるようになるのではありませんか?21世紀は、色々な宗教観を受け入れる多神論の時代であるべきだと思います。そういう時代に排他的なキリスト教はふさわしくないのではありませんか?

日本的精神あるいは日本の宗教の真髄は「和」にあります。「まあまあ、そんなにむきにならずとも」と、争う2人の間に割って入り、「お互いの立場を理解し合って」と説得し、白黒つけずに争いをまとめてしまうことが「尊し」となされます。そうして表面的に争いを収めてしまう人が心の広い人物とされます。聖徳太子以来の伝統でしょうか。日本の社会ではそれで通用するのかもしれません。
しかし、「義=何が正しいか」よりも、「和」を絶対とする考え方は、国際社会では必ずしも受け入れられず、むしろ問題を引き起こす原因となり、日本人に対する不信感を植え付けてしまうことにもなっています。
多神論も同様です。「排他的にならず、それぞれの神のよいところを認め合っていくべきだ」というのは響きはいいのですが、真理の追究においても平和の追究においても、決して実質ある解決にはなりません。
なぜでしょうか・・・

《1.多神論を認めることは真理の実質的喪失である》

まず第一に、あなたの唱える多神論は、人間中心主義の所産であり、平和共存という目的のために人間の知恵が生み出した方便にすぎません。それは神に人間が従うという姿勢ではなく、神を人間の目的に従わせようという姿勢です。そこにあるのは、人間の都合に合わせて操作できる弱々しい神々、人間の仲裁を必要とする絶対性のない神々です。真理が何であるかはもはや問題にされず、いかに譲歩して争いを避けるかが第一とされるのです。
世界には多くの神々があるから、平和のために多神論を認めるべきだというのは、本末転倒であり、真理追究の放棄です。「義」なしに真の平和はありえません。

《2.多神論は無神論である》

第二に、多神論は唯一神論の否定というより、むしろ宗教そのものの否定です。多神論は、宗教から信仰の意味を奪ってしまうからです。
多神論とは結局、不完全な神の存在は認めても、完全な神の存在は認めない一種の無神論であると言えます。全能にして永遠なる神が、複数存在するということはありえません(複数の全能の神々が戦って決着をつけるとすれば、まさに無敵の矛と盾の争いです)。また完全なる神は下位の神を必要としません。全能で完全であるということは、唯一であるということと同義なのです。つまり神が全能であれば神は唯一であり、神が複数存在するとすればその神々は不完全だということにほかなりません。不完全な神をいくつ集めても完全にはならないのです。不完全な神々は信じる価値があるでしょうか。
完全なる神を一つでも認めれば、その神は唯一であり、多神論は成立しなくなってしまいます。私たちは、不完全な神を神とは認めません。不完全な神々を寄せ集めた宗教は、無神論の一形態というべきです。

《3.多神論は精神と文化の腐敗をもたらす》

多神論的寛容さは、むしろ21世紀の文明を内部から腐敗させる可能性が高いと考えます。本物も偽物も、聖なるものも汚れたものも区別せず、清濁合わせ飲む社会が退廃していくのは歴史が示すところです。「各々が自分の目に正しいと見えることを行っていた」(士師記21章25節)時代というのは、いつも堕落と混乱の時代でした。表立った対立や争いは少ないが、敗で満ちた正義のない社会は、平和と呼ぶに値するでしょうか。
また、多神論的寛容は、実は、絶対性拒絶という排他主義の裏返しであることも忘れてはなりません。マザー・テレサのように犠牲的な愛を尽くした人でも、彼女の唯一神信仰のゆえに、多神論に立つ人々からは拒絶されているのです。排他主義は、唯一新宗教の「専売」ではないのです。
最後に、キリスト教の排他性(神の聖さと義)は、キリストの十字架によって示された寛容性(神の愛)と表裏一体になっていることを強調しておきます。