神が愛ならなぜすべての人を救わないのか

【問24】神が愛というなら、なぜすべての人を天国に入れてくれないのですか。神が地獄をも用意して待ち構えているというのは、神の愛に反するのではないでしょうか?

「死んだ物には鞭打つな」という心情が、日本人にはあります。どんな人間でも死ねば、その生前の罪を詮議することは憚られ、時には善人、まれには「神」のように扱われることさえあります。そして、勝手に死者を天国や極楽に送ったり、あるいは天国でも地獄でもない中間地にさまよっていると言ったりするのです。そんな寛大で、いいかげんな考え方をする人々にとって、「人は死後裁きを受け、永遠の命(天国)と永遠の死(地獄)とにふり分けられる」という聖書の教えは、神の愛と矛盾するとしか思えないでしょう。
以前、私の教えていた小学生が、「善いことをすれば天国、悪いことをすれば地獄へ行きます。僕は悪いこともしましたが、善いこともしました。だから、僕は死んだらきっと中国へ行くのだと思います。」と作文に書いて、みんなを笑わせました。しかし、そのような曖昧で中間的な場所は実存しません。天国か地獄かの二者択一なのです。そして、その現実が世界中の牧師や伝道者をして、福音宣教のために東奔西走させているのです。
確かに神は愛です。一人でも地獄に落ちることを望んではおられません。しかし、同時に、次のことも理解しておかなければなりません・・・

《1.神は愛であると同時に聖なる存在である》

神の愛は、聖いものも汚れたものも、無条件・無差別・無分別に受け入れるような甘やかしの愛ではありません。むしろ、私たちに罪を悔い改めさせ、聖さへと導く強靭な愛です。神は聖なる存在です。甘やかしの愛のゆえに、聖さにおいて譲歩されるようなことはありません。
神の愛を甘やかしの愛と誤解して、かえって罪と汚れを助長させているケースが時々あります。たとえば、わがままに振る舞う子どもに対し、親がその自己中心性をたださず、子供の行動を無条件に受け入れて放任するという愛がそうです。こらしめを受けない子供は、ますますわがままになっていきます。親からの赦しと許可を受け取るからです。何が正しく何が悪であるかを示せない無分別な愛、悪に対しそれにふさわしい裁きを下せない弱い愛は、神の愛にはほど遠いものです。
神はキリストの十字架のゆえに、どんな罪人をも赦す(赦免)用意があります。それが神の愛です。しかし、十字架のゆえに、罪そのものを許す(許可)ような無分別なことは断じてなさいません。罪人が罪とともに天国に入ろうとするのを、そのまま認めるわけにはいかないのです。
神は聖なるがゆえに、聖なるものしか受け入れることができません。そして神は愛なるがゆえに、人が聖(義)と認められる道を、キリストによって開いてくださったのです。

《神は人間の自由意志を尊重される》

神が私たちの自由意志を尊重してくださるように、神の愛が表されています。そして自由意志が備わっているところに、人間の人格の完全性があるのです。
どんなにおいしいからといって、いやがる者に無理やり食べさせるのは、愛とはいえません。同様に、神も、人間の自由意志を損ねてまで、無理矢理天国に押し込めるような愛の押し売りはされないのです。それでは人間は、神のロボットか人形になってしまいます。
実際、世の中には、悲しみも争いもない天国の方が居心地が悪い、と天国を拒否する人たちが数多くいるのです。地獄というのは神が積極的に創造された場所ではなく、むしろ神とともに光の世界に住むことをよしとしない者たちが、自分たちだけのために、特別注文で造ってもらった暗闇の世界である、と私は考えています。
天国か地獄か、それは各人の自由意志による選択です。聖書は「あなたの前にいのち(天国)と死(地獄)を置く。あなたはいのちを選べ」(申命記30章19節)と語ります。それでも私たちは自分の意志で、「死」を選ぶことができます。と同時に、どんな罪に汚れていても、「いのち」を選ぶこともできるのです。「いのち」を選ぶとはキリストを受け入れること、「死」を選ぶとはキリストを拒絶することです。
神がすべての人を天国に入れたくても、本人が拒絶するのであればどうしようもありません。