なぜ神は悪人を裁かず、野放しにしておられるのか

【問28】世の中は不正義と悪が野放しになっています。悪いことをしながら、堂々と他人を苦しめて生きている人々を見ると、腹立たしくなります。神はなぜこうした人々を生きているうちに罰せられないのですか?

聖書のエステル記に、ペルシャで王に次ぐ権力の座についたハマンという男が登場します。彼は、自分の前にひれ伏さない一人のユダヤ人モルデカイ二業をにやし、彼を処刑するために、高さ20メートルあまりの柱を立てます。そして王に、モルデカイの処刑を願い出ようとしました。しかし、柱にかけられることになったのは、結果的にはハマン自身でした。
箴言26章27節に「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす」とあります。古今東西、自分が作った厳しい法律や刑罰に自らひっかかり、処刑された例は数え切れません。人のために掘った墓穴に自分自身が葬られるのは、私たちの日常でもよくあることです。
「なぜ神は悪人を懲らしめずにのさばらしておくのか」と、私たちには、神の裁きが遅いことに不平を言いたくなります。「あの悪人を裁いてください」とさい、祈りたくなります。しかし、そう思った時、思い出さなければならないことが三つあります・・・

①悪いことをしながら堂々と生きながらえているのは、自分自身もそうだということ

もし神が、「悪者を懲らしめてください」という私たちの願いを聞き届けられたとしたら、その願いによってまず最初に懲らしめられるのは、私たち自身であることを覚悟しなければなりません。私たちも、神の前には同様の罪人だからです。「いや、あんなやつに比べれば、私の罪は軽い」と思い人もいるかもしれません。しかし、むしろ神はそういう人の傲慢さを、最も嫌われるのです。
自分の罪の大きさを忘れて他人の裁きを求めれば、ハマンのように、自分自身のために「墓穴を掘る」ことになってしまいます。

②神が直ちに悪を滅ぼされないところに、神の私たちに対する豊かな寛容と慈愛が示されていること

神は、その寛容と慈愛によって、私たちが悪を悔い改めるのを待っておられます。神はノアの時代に全地を洪水によって滅ぼされたときも、ソドムとゴモラの町を硫黄の火によって焼き尽くされたときも、カナンの諸民族をイスラエル人によって討たれたときも、実は、数百年に渡って警告を送り続け、忍耐をもって待ち続けられたのです。しかし、それらの人々は、神の愛を無視していました。
それらの中にあって、アッシリア帝国の首都ニネベの12万の民だけは、神の警告を受けて悔い改め、滅亡を免れることができました(ヨナ書)。彼らは神の寛容と慈愛をものにしたのです。
ローマ書2章3節・4節にこう書かれています。『人々を裁きながら同じことをしている人よ…….神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

③神は悪人の身代わりとして、御自身の子イエスを十字架につけられたこと

悪人が受けるべき罰を、キリストが十字架上で既に負ってくださったのです。それはキリストを信じる者がどんな悪人であっても赦され、滅びないようにするためです。ここに神の愛があります。
ですから「悪人に直ちに裁きを」と神に祈ることは、神の愛とキリストの十字架の死が無駄になることを願うに等しいのです。十字架による赦しを受けたクリスチャンは、悪をなす人々が滅ぼされることではなく、彼らも悔い改めて、神の慈愛にあずかることを祈ります。悔い改めなかったら、死後、想像を絶する裁きが彼らを待ち受けているのです。
神の愛はすべての人に注がれています。そして、私たちが考えている以上に神の裁きは厳正で、すべての人に公平なのです。私たちが神に、「不公平だ」と訴えるようなことは何一つありません。