救いは信仰によるのか行いによるのか(パウロとヤコブの違い)

【問27】パウロはローマ書やガラテヤ書で、人は行いによってではなく信仰によって義と認められる、と語っていますが、ヤコブは人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない、と述べています。この矛盾をどう考えればいいのですか?

ある中学校でのこと、Y君が体育館から教室に戻ってみると、カバンの中に入れておいた時計がなくなっていました。体育の授業を休んでいたO君に、クラスの疑いが集まりました。しかし、A君だけはO君をかばって言いました。「彼は、人のものを盗むような人間じゃない。」血の気の多いA君は、その日、O君を疑った生徒の1人と取っ組み合いの喧嘩をしました。
さて翌日、時計はトイレで発見されました。Y君がそこに置き忘れただけのことだったのです。O君の疑いは晴れ、この日からO君とA君は親友になりました。2人が親友になったのは、A君が、喧嘩は行きすぎにしろ、行為でO君への信頼を証明したからです。
正確に言えば、2人を結びつけたのは、喧嘩によって示されたA君のO君への「信頼」であって、喧嘩という「行為」そのものではありません。しかし、O君はきっとこう言うでしょう。「A君のあの喧嘩によって、ぼくたちは親友になれたんだ。」それはその通りです。たとえA君がO君を心の中では信頼していても、何の行動にも出なかったら、2人は親友になれなかったのですから。O君の疑いが晴れたあとで、「僕は最初から、君がそんなことをするはずはない、と信じていたんだよ」などと言っても、「それなら、なぜ最初から、かばってくれなかったんだ。調子のいいやつ」と、軽蔑されるでしょう。

《1.両者の間に矛盾はない》

救いと信仰と行いの関係も、それと同じことが言えます。私たちは行いではなく、信仰によって救われる(義と認められる)のです。これがパウロの主張です。しかし、その信仰は行いによって証明された「行きた信仰」でなければなりません。それがヤコブの主張です。2人の間に強調点の違いはあっても、矛盾はありません。

《2.手紙の受取人の状況がそれぞれ異なる》

両者の間で、強調点に差が生じたのは、手紙を宛てた対象が異なるからに過ぎません。パウロは、行いがなければ救いは完うされないという、律法主義的な考え方から抜け出せないクリスチャンたちに対して、手紙を書きました。その内容は、「真の信仰とは何であるか」ということでした。真の信仰とは、救いに値しない罪人がキリストを救い主として受け入れさえすれば、立派な行いがなくとも救われると信じることである、と彼は語ったのです。実際、善行をどれだけ積んでも、人は救われません。
一方、ヤコブは、信じさえすれば救われるのだからと、行いを軽視しているクリスチャンに対して「真の信仰とは何でないか」を語りました。心に思っているだけで行いの伴わない信仰は真の信仰とは言えず、救いの役に立たない死んだ信仰である、と説いたのです。

《3.両者の答えは相互補完的である》

両者の主張をまとめると、こうなります・・・

①人は行いではなく、信仰によって救われる。

②その信仰は、行いによって証明されなければならない。行いなしに信仰を証明できないから、救われるために行いは不可欠である。

③しかし、行いは信仰の結果としての行いであり、信仰があることを証明するための条件であって、行いそのものが救いの条件となるのではない。

つまり、パウロとヤコブの教えは、対立しているのではなく、互いに補い合っていると考えるべきなのです。
私たちの行いは、確かに不完全です。しかし、不完全な行いであっても、A君のように、自分の信仰を証明することはできます。私たちに求められていること、それは信仰を(不完全な)行いによって証明していくことです。
あなたの信仰は証明済みですか?