なぜ私が罪人なのか

【問33】キリスト教では、すべての人間は罪人であるから悔い改めよ、といいます。もちろん私も完全な人間ではありませんが、悔い改めて赦しを乞わなければならぬ程の罪を犯したとはとても思えません。それでも罰せられるべき罪人なのですか?

確かに聖書は「すべての人は、罪を犯した」(ローマ書13章23節)と言っています。人間の目には立派で善良に見える人でも、神の目には罪人であると、聖書は断言するのです。なぜでしょうか。それは、罪とは創造主なる神に対して犯すものだからです(Ⅱサムエル記12章13節)。聖なる絶対者の前には、すべての人が汚れているとされるのです。
「創造主」「絶対者」という観念を持たぬ日本人にとって、罪の理解には難しさがあります。私たちは子どもの頃から、「人に迷惑だけはかけてはいけないよ」「あの人のようになってはだめよ」と教えられて育ちます。そこから出てくるのは、「人に迷惑さえかけなければ、何をしてもいい」「あの人に比べれば、私のしていることなんかまだましだ」という考え方です。この考え方に従うと、相手が喜んでやっているんだからと売春は悪ではなくなり、相手の苦しみを取り除いてやるのだからと妊娠中絶も善となり、高い料金を少し取り戻しているだけだからとキセルもしかたがないとなるのです。「だって誰にも迷惑かけてないでしょ。」
こうした相対的なものの見方からは、罪意識が生じるはずがありません。しかし、そうした見方に立った行為は、確実に創造主の心を傷つけていることになるのです。いわば、創造主に迷惑をかける行為です。
そこで知っていただきたいことは・・・

《1.創造主に対する反逆はすべて罪である》

罪とは、本質的には人間に対して犯すものではありません。人間に対するものであっても、人間を創造された神に対して罪を犯しているのです。

神に対する反逆とは

①神を神として認めず、自らが神のように生きること

②神の愛を裏切っていること、すなわち神の無条件の恵みに感謝しないこと

③神が私たちの幸福のために定められた規則を無視して守らないこと

などです。こうした意味で、私たちは皆、絶対者の前に罰せられるべき罪人なのです。

《2.私たちが罪人であることは、罪の結果として背負っている重荷によっても分かる》

すべての人が罪の結果としての重荷に苦しんでいます。

・・・破壊性・・・
たとえば自分の行動を狂わせる破壊的な性格です。正しいことをしようという意志はあるのに、それを行う力がない。幸福になりたいと願っているのに、全く的外れなことをして、逆に自分自身を不幸、不幸へと追いやってしまう。立派な人格者になりたいと思っているのに、心は姦淫、貪欲、欺き、妬み、高慢に満ちてしまう。すべての人がこうした矛盾や自己破壊性、弱さ、危うさに悩まされているはずなのです。

・・・恐 れ・・・

また、罪人の心には恐れがまといついています。聖書は「罪人はちょっとした音にもおびえる」と語ります。心に疾しさがある者は、自分は正しいという確信がないので、わずかなことでもおびえるのです。たとえばエイズの初期の症状は風邪とよく似ています。結婚という枠外で性関係を持つ人は、風邪をひくたびに、ひょっとしたらエイズではないかと一生おびえて過ごさねばなりません。
特に、罪人は死への恐怖を抱いています。罪は死を宣告するからです。罪人はいつも死につきまとわれて、自分が「無」になってしまうことを恐れつつ生きています。死の不安からの解放がありません。これも罪がもたらす重荷です。 

・・・人生の無意味性・・・

あるいは、人生を生きることの無意味・無目的性も、罪の結果と言えます。つまり、生きがいが感じられないということです。人類の叡智である哲学がたどり着いた結論は、「人間存在は本質的に無意味である」ということでした。この人生の無意味性は、現代人の精神生活に大きな重荷となっています。それは、暴力、麻薬、道徳の荒廃、無気力症候群などの精神病などに現われています。
あなたはいかがですか。自分は罪人ではないと言えるでしょうか。
救い主キリストとの出会いは、正直に自分は罪人であると認めるところから始まるのです。