クリスチャンになれば自由がなくなるか

【問32】クリスチャンになると、質素でおとなしくて、なにも楽しんではいけないという思いに縛られそうです。細かいことでこれは罪ではないかと恐れ、かえって自由がなくなり、消極的になってしまうのではないですか?

あなたと同じ様に、クリスチャンになれば一つの枠の中にはめこまれ、自由が狭められてしまうのではないかという恐れが、かつての私にもありました。しかし、聖書を正しく解釈すれば、それは誤解であることが分かります。
その誤解を指摘することで、質問への答とすることにします。

《1.クリスチャンの救いに対する誤解》

あなたは、救われるためには、まず自分が神を愛し、神の命令を守り、罪を犯さないようにすることだとお考えではないでしょうか。ところが、順番が違うのです。実は、あなたが神を愛する前に神様の方からあなたを愛し、あなたの罪の贖いのために御子イエスを十字架につけてくださったのです。ですから、その神の愛を信じて罪の赦しを受け取れば、救われるのです。その救いを継続させるために必要なことも、十字架の贖いを信じ続けることであって、罪を犯して救いを失うのではないかと恐れて暮らすことでは決してありません。
神の愛と罪の赦しを受け取らずに、神を愛し罪を犯さないようにするのは本当に苦痛です。神の愛はその苦痛からあなたを解放してくれるのです。どうしても罪を犯してしまうあなたの弱さをそのまま受け入れてくださる神の愛に、救いと平安と喜びを見い出していくのが、クリスチャンの本当の生活なのです。

《2.クリスチャンの自由に対する誤解》

「キリストは自由を得させるために、私たちを解放された」(ガラテヤ書5章1節)というのが聖書のメッセージです。しかし、同時にこうも語っています。「すべてのことはしてもよい。しかし、すべてのことが有益とは限らない。・・・・・すべてのことが徳を高めるとはかぎらない」(Ⅰコリント人への手紙10章23節)
私たちは自由を非常に大切にしますが、何のための自由であるかはあまり考えません。あなたの自由には目的があるでしょうか。目的のない自由は本当は不自由です。その自由で何をすべきか分からず、結局は肉の欲望の思うままになって、健康や将来の可能性を台無しにしてしまうからです。目的意識のない学生は勉強すべき時に遊んでしまいますが、それで幸福であるとはとても思われません。
しかし、クリスチャンの自由には、自分に与えられているものを最大限に発揮して神の栄光を現すという目的があります。クリスチャンは何をして楽しんでもいいのです。しかし、目的を達成するために有益なことと有害なことを見分け、耐えるべき時には耐え、待つべき時には待つことを選ぶために自由を使うのです。それは一時的な小さな喜びよりも、長続きする大きな喜びを得るためです。
絶望的な状況でも希望を持つ自由があります。憎みたいときにも赦す自由があります。したくない正しいことをする自由もあります。そうした肉の弱さを越えていく自由を、神は与えてくださるのです。

《3.クリスチャンの持つ可能性に対する誤解》

私たちは、この世の価値基準(生まれ、容貌、学歴、財産、収入など)から自分を判断してしまう傾向があります。その結果、低いセルフ・イメージ(自己像)しか持てなくなっています。
しかし、クリスチャンはそのような基準から解放され、創造主である神の目で自分を見ようとします。神の目には、すべての人が高価で貴く、果てしない可能性を持っているのです。クリスチャンは神から、自分の将来のなりうべき姿(ビジョン)を見せられ、希望に満たされます。
そんなクリスチャンがどうして消極的でありえるでしょうか。クリスチャンこそ、ダイナミックに自由にそして可能性を見つめて、人生を生きる人種なのです。