宗教は非理性的か

【問30】私は「宗教」というものに大変抵抗があります。何か非理性的、非常識的といいますか、異常な感じがするのです。そういう思いがあって、キリスト教に足をつっこめないのですが・・・

お気持ちはよく分かります。異常な宗教が多すぎます。
病院で、薬を過度に飲みたがる患者に、害にも益にもならぬ粉末を薬だと信じて飲ませると、よく利くことがしばしばあります。精神と身体の相関性から言えば、格別不思議なことではありません。しかし、この相関性を利用して、「私は、神からの御告げを受けた。この神水を飲めば、どんな病気でも癒される」と、ただの水を一瓶数十万円で売りつけ、「飲んだ人が癒された。奇跡だ」と騒ぎ始めれば、これはもう十分異常です。
実際、それに似たことをしている宗教団体があるわけですが、こうしたやり口はどの宗教団体にも形を変えて入り込んでいます。木、石、紙、金属で人間が製造したものを、霊石や御本尊などといって、法外な値で売りつけて拝ませるのもそうです。
異常と言えば、輸血を拒否して死んだ信者の葬式に笑いながら参列するエホバの証人もそうです。これを見て異常だと思わない方が、それこそ異常です。何か異常だ、と感じる常識的な感覚は、むしろ正しい教えを見分ける上で、とても大切なのです。
さて、私はクリスチャンとして、キリスト信仰を次のように理解しています。

《1.信仰は理性的》

キリスト信仰は、理性と対立するものではありません。私は、自分の理性を放棄してクリスチャンになっているのではないのです。神に関する知識を理性的に追究し、真の価値が何にあり何にないかを理性的に見極めようとします。ですから、異常な教えや行いに欺かれることはありません。
というのは、キリストの神御自身が理性的な存在だからです。混乱の神ではなく、秩序の神です。神はその叡智によって、宇宙を秩序ある世界に創造されました。その理性的に創造された世界を、理性的なキリスト信仰で探求するところから、近代科学さえも誕生しているのです。非常識的、非理性的な態度で、この創造主を礼拝することは正しいことではありません。それは偶像礼拝です。
たとえば、病人を、医師や薬の助けを受けることを不信仰だとし、祈祷だけで癒すことを主張するのは、強い信仰ではなく、理性を失った信仰です。あるいは、一方的に神の御心だと行って、よく知らないもの同士を結婚させるようなことも、常識を逸しています。
理性的に計算・考察せず感情だけで走る信仰は、盲目的信仰であり狂信です。しかし、キリスト信仰は理性を重んじるのです(ルカの福音書14章28節〜32節)。

《2.信仰は超理性的》

しかし、信仰は人間の理性の範囲にとどまるものではありません。その範囲を越えていきます。神は超越的存在として、人間の理性では理解できないこともなさいます。もし、神が人間の理性で説明できることしかできないとしたら、そのような神は、神としての特性(全知全能・永遠性など)を失っているわけですから、もはや神とは言えません。
信仰とは、その神がなされることを、理性では理解できなくても、信じ受け入れることです。そこに信仰の本領があるのです。そうしてはじめて、信仰は生きた、ダイナミックなものになるのです。
といっても、それは理性を否定した信仰ではありません。理性を越えた信仰です。しかも、理性を越えたものを信じていることを、理性的に受けとめている信仰です。理性的には愚かなことを受け入れている自分自身を冷静に見つつ、意志の力(聖書的には聖霊の力)で信じているのです。
理性を越えているときも、理性は働いています。そのことによって、信仰の狂信化にも歯止めがかかるのです。
常識的な感覚は大切です。しかし、異常なものを恐れるあまり、キリスト信仰の理性的かつ超理性的な世界をも、ほかの宗教と一緒に拒否されるとすれば、とても残念です。