なぜ日曜日に教会に行かなくてはならないのか

【問39】クリスチャンは、なぜ日曜日には教会に行かなければならないのですか?家で日々聖書を読み、祈り、礼拝するだけではいけないのでしょうか?

自分に与えられた人生を生かしきるためには、まず何が大切で何が大切でないかをはっきりと区別する必要があります。大切でないことは即座に止めるべきです。しかし、それよりも更に重要なことは、大切な事々の中でも何が最も大切であるかの優先順位を明確にしておくという事です。これが明確でないと不幸な結果を招きます。
数年前の正月、母子心中がありました。正月も仕事で家に帰らなかった夫に、妻が遺書を残していました。「仕事が第一のあなたは、家族などいらないでしょう。」家族の経済生活を守るために仕事も大切です。しかし家庭はもっと大切なのです。気持ちの上でも夫に後回しにされていると感じた妻は、深く傷ついていたに違いありません。
さて、自分の家で礼拝を守るのではいけないかと仰せるあなたの心の裏では、何が最優先になっているでしょうか。神の命令でしょうか、あなた自身の都合でしょうか。自分で時間を決めて礼拝をしているという人がいますが、その場合、神の命令よりもその人自身のスケジュールの方が優先されているのです。教会の人間関係がいやだという人もいます。しかし、その人自身に問題がある場合が少なくありませんし、いずれにしろ、自分の都合を最優先にしている事には変わりありません。
このことに関して聖書が何といっているか見てみましょう。

《1.誠実に創造主なる神を礼拝することは、神御自身の命令である》

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト記20章8節)。聖日は主のものであり、この日は自分の好むことを求めず、教会で礼拝を捧げるのです。これは主の命令です。自分勝手に日時を決めて礼拝しても長続きはしません。この2000年、もし教会がそれぞれの都合に合わせて日を決め、礼拝を守っていたならば、教会はこんなに世界的に成長はしなかったことでしょう。キリスト教界は混乱し、今日のような影響力も発揮できなかったと思います。

《2.教会を離れてはクリスチャンの真の成長はない》

キリストは「わたしはぶどうの木であり、あなたがたは枝です。・・・・・わたしを離れては、あなた方はなにもすることができないからです」(ヨハネの福音書15章5節)と言われました。教会はキリストの体です。枝が幹からはなれては育たないように、教会、あるいは信徒の群れから離れて、一クリスチャンが強固で健全な信仰を築いた例を私はまだ知りません。教会を離れれば、まずまちがいなく信仰は衰退するか、自己満足的で自己流の歪んだ信仰を形成するようになります。何事でも自己流では変な癖を身につけ、ある程度で成長は止まってしまうのです。幹から切り離された枝は、実と結ぶことはできません。しばらくは青くとも、やがて枯れてしまいます。
「ある人々のように、一緒に集まることを止めたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近付いているのを見て、ますますそうしようではないか」(ヘブル書10節25章)

《3.教会を離れては神の計画に参加できない》

神はキリストの体である教会を通して、御自身の計画を遂行し、成長し、栄光をあらわされます。クリスチャン1人1人は、神の計画遂行のためにキリストにあって召されているのです。
クリスチャンはキリストの体の一部です。ひとつの体を構成する部分として、キリストにつながっているのです。教会とは個別につながっているわけではありません。教会の中で、クリスチャンは互いに励まし慰め祈り合いつつ、神の働きを遂行するのです。そしてどのクリスチャンも、それぞれ御霊の賜物を受けており、それにふさわしい働きの場が与えられています。教会全体がキリストを頭とする1つの有機体です。信徒1人1人はその器官として、神の計画に参加しているのです。そうした神の壮大な計画に参与する機会を自ら放棄してしまうのは、あまりにも寂しいことではありませんか。