日本人には日本人のように

無信仰、無宗教、自己主張がない、曖昧、思考停止・・・それが日本人の特徴だといわれます。あるアメリカ人宣教師が、「日本人にはSelfはあっても、“I “はない」(自己中心な我欲はあっても、確立された『自分』というものがない)」と言っていました。

以前、私も、そんな日本人に唯一神信仰を伝えるには、まず日本人が『自分』を確立し、自分の存在の虚無と正面から向かい合い、意味や目的を深く考えるようにならなければならない、と感じていました。でなければ、罪はわからず、キリストの十字架の必要性も理解できないと、思っていたのです。私自身がそうやってキリスト信仰を持ったからでもあります。しかし、それは欧米人の考え方でした(もちろん欧米人自身は、そうやって救われれば、それでいいのです)。

今の私は、日本人が救われるために、そんな欧米流の『自分』を確立する必要はないと考えています。日本人的な曖昧さはあっていいし、自分の存在の虚無と向かい合わなくてもいいし、自分というものがなくてもいいとさえ思います。要するに、日本人として、キリストを信じ、救われればいいのです。日本人が救われるために、何も欧米人のようにならなければならない道理はありません。

日本人は、これだけ欧米の影響を受けても、日本人としての根本的な考え方や生き方を変えてはいません。毎年正月になると、「無信仰、無宗教、自分がない、曖昧」といわれようが日本人の4人に3人が、家族や仲間と一緒に初詣に行くのです。いいかどうかは別にして、これが日本人の現実なのです。ところが、日本の教会はこの現実を忘れているかのように、「欧米神学の方法」で、日本人をキリストに導こうとしているのではないかと思います。

私もまるで「不信仰、無神論、自己主張が強い、イエス・ノーがハッキリしている」欧米人に伝道するかのように、聖書を語ることがありました。日本の教会も欧米化していると感じます。日本人のクリスチャンは、もう一度、日本人には日本人にならなければならないと感じています。