神の国は共同体主義(下)

日本の社会も、新自由主義が導入され、個人主義が強まってきました。個人個人の自由な競争に委ねれば、社会は公正になるという考え方です。
しかし、自分の能力を発揮し、自分の利益のために仕事をし、自分個人の成功=自己実現を目指す人間には、実は大したことはできないのです。人に自慢し、人の称賛を目指しているだけであるなら、うまくいかなくなったとき、自分個人の事なので、あきらめやすいのです。場合によっては、不正をして面子を保とうとさえします。自分の力はある程度発揮できても、自分の力をはるかに超えたことは達成できません。個人の力など、高が知れているのです。
聖書の信仰者というのは、一個人の力をはるかに越えたことを成し遂げています。モーセは、自分個人のためならば、出エジプトの大事業など早々と放棄して、ミデヤンの羊飼いに戻ったことでしょう。しかし、主との契約に入り、イスラエル民族全体の希望を担ったがゆえに、荒野40年を耐え抜くことができました。ヨシュアもカレブも、ダビデも預言者たちも、ペテロやパウロら使徒もみなそうです。「神の国のため」に召され、主と契約を結び、「神の国」の共同体のために、神の栄光を現わしたのです
しかし、共同体の中にあっても自分個人の利益のために動いた人間は、結局小さく終わるか、すべてを失っています。アカンやサウル王、イスカリオテのユダなどはその典型です。
主と契約を結び、人々を祝福するために生きるという人は、自分を喜ばせるのではなく、主と人々を喜ばせようとします。主も、そういう人にさらに祝福を与え、賜物を増し加えてくださいます。本人も、その働きに、労苦にさえ、意味と楽しみ感じるようになります。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ 4:13)というパウロの言葉を実感することじなると信じます。