神の国の生き方

「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒1:11)。
教会は、キリストが再臨される日を待ち続けて二千年になります。キリスト御自身が、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません」(マタ 24:36)と言われた「その日」を、代を継いで待っているのです。
二千年も待ってまだ来られないのなら、もう来られないのではないか。いいえ。実は、キリストの初臨のときも、旧約聖書時代の信仰者たちは長年待ち続けたのです。そして、「はるかにそれを見て」喜んでいました(ヘブル11:13)。アブラハムとその子孫は二千年待ち続けて、その日を迎えました。キリスト御自身がこういわれています。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(ヨハネ 8:56)。
アブラハムの子孫イスラエルは、待つ民です。そして、私たち異邦人クリスチャンも、キリスト信仰によってアブラハムの子孫となったのですから、再臨の日を待ち続けるのです。
キリストは必ず帰ってこられます。しかし、「その日」がいつかはわかりません。では、どのようにして待つのか。神の国に生かされている喜びと感謝で、今日の恵みを楽しみながら待ちます。「その日」は明日かもしれません。だからこそ、自分の務めを誠実に果たしながら、今日を楽しむのです。と同時に、次世代に「再臨」の希望を託して待ちます。代から代へと神の国の祝福を受け継がせていくこと。それが、アブラハムの子孫の待ち方です。
来年で宗教改革五百年ですが、その指導者マルチン・ルターが、「たとえ明日が世の終わりでも、今日、私はリンゴの木を植える」と語ったそうです(典拠は不明)。「明日が世の終わり」かどうか、誰にもわかりません。たとえ明日だとしても、御国の種を蒔き続け、育てなければなりません。「蒔く者と刈る者がともに喜ぶ」(ヨハネ4:36)日を楽しみにして。