本物の知識

「教養人とは、どんな悪であっても、善の視点の下に引き込み、一切は必要やむをえないことであったと肯定する術をわきまえた人のことです。最悪の行為にも立派な理由が見つけられないようでは、教養豊かとはいえません。アダムの以来、世界のあらゆる悪に、正当化できる理由が見つけられなければならないのです」(ヘーゲル『哲学史講義』)。
 古代ギリシャのソフィストと呼ばれる知恵の教師たちは、間違ったことでも、本当らしく見えさせる詭弁の術に長けていました。行為そのものは悪くでも、結果が良ければ、許されます。普遍的な真理よりも、現実に人が幸せと思える体験のほうが大切なのです。
暗殺やテロも、悪を阻止し、全を広めるという重要な使命を帯びたものだった、という理由のもとに正当化できます。不倫や中絶、詐欺や窃盗、中傷や虚偽なども、それで誰かを幸せだと感じさせるなら、問題ないのです。
笑えてきませんか。昨今の国々のリーダーたちの発言や行動を見たり聞いたりしていると、まさに典型的な「教養人」だと拍手喝采し、「ほめ殺し」したくなります。メディアにもネットにも、立派な「教養人」があふれています。
今や、飛び交う情報の何を信じていいのかわからないほどで、活字になっているからといって、鵜吞みにはできません。情報源となっている人物の肩書や学歴に騙されないようにもしなければなりません。
さて、教会で一番困るのは、偽の福音、偽の教えを持ち込むグループがいることです。いわゆる異端やカルトです。今どきの異端は、統一教会やエホバの証人と異なり、なかなか見分けがつきません。おいしいことを言います。話しも上手で、わかりやすいです。しかし、聖書からずれていくのです。いつしか教会に分裂をもたらします。ペテロもこう警告しています。「同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み」ます(Ⅱペテ 2:1)。
偽物を見分けるために、偽物を研究する必要はありません。本物だけを学べばいいのです。そうすれば、鑑識眼が養われます。世の中にあふれる情報の中で、本物の知識の源泉は聖書のみです。GCCが聖書の学びに力を入れている理由の一つです。