与える

ある歴史学者が、「何かを獲得することで評価される社会は、戦争に向かう」と言っていました。特権的地位、富、知識(学歴)、権力を得ている人たちが、ただそれだけで尊敬され、うらやましがられるという社会です。
一方、何かを与えることで尊敬される社会は平和になり、栄えます。それは多くを受けた人が足りぬ人に施し、富や知識を社会に還元することを喜びにする社会です。
 曽野綾子さんが、「『人間になる方法』は与えること」と題してコラムを書いています。曽野さんは子供の時に、その「人間になる方法」を先生たちから教わった。しかし、今の子供たちは「要求する権利」ばかり習ってきている。そして今、その先頭世代が老年に近付き、身勝手で強欲な年寄りになりかかっている、というのです。自分は年寄りではないと、他人事と考えてはなりません。どの年代もそうです。
そのコラムで、曽野さんは、エルサレムの聖墳墓教会の冷たい床にひざまずいて祈っている一人の女性の話を紹介しています。彼女はイスラエルでは有名な弁護士で、お金もちだったが、最近、財産をすべて貧しい人にささげたのだそうです。福音書に記録された「貧しいやもめ女の献金」を思い起させる話です(産経新聞161130)。
主イエスは、神殿の献金箱にレプタ銅貨2枚を入れた貧しいやもめが、だれよりもたくさんささげたと言われました。それは彼女が「あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れた」(マルコ12:42、ルカ21:2)からです。
神の国では、どれだけ受けたかではなく、どれだけささげ、与えたかが評価されます。どれだけ稼いで、どれだけため込んだかでは何も評価されません。忘れてはなりません。この地上で獲得したものが残るのではなく、与えて、ささげたものが主の御前に残るのです。そのことを喜びとしたいと思います。どうせこの地上は去るのです。
神の国で生きる者は祝福されます。祝福されるのは、祝福する者となるためです。それが、義とされた人間の生きる方法です。