抽象的な思想より「醤油」

 鎌倉時代の臨済宗(禅宗の一つ)の高僧で、覚心(1207~98)という人がいます。信州の田舎の出身でしたが、華厳の東大寺、真言の高野山、密教の鎌倉寿福寺、曹洞宗の永平寺・道元、上州の長楽寺・栄朝らの下で、さまざまな仏教の思想体系を修め、仏教界では知られた人物になりました。しかし、43歳で自分は知的に理解しただけだと気付き、43歳で中国に渡って臨済禅の修行6年、悟りを得て帰国し、紀州由良で西方寺(興国寺)の田舎僧となります。
ところで、覚心は味噌が好きで、中国の径山寺(キンザンジ)で食べた味噌の味が忘れられず、由良の隣村湯浅でその味噌を試作します。それが「きんざんじみそ」の先祖ですが、その醸造の副産物として、醤油の原形ができてしまいました。これが日本で最初の醤油なのだそうです。
この話を紹介している司馬遼太郎がこう書き残しています。
「かれ(覚心)の人生の目的ではなかったが、日本の食生活史に醤油を登場させる契機をつくった。後世の私どもにとって、なまなかな形而上的業績を残してくれるより、はるかに感動的な事柄のようにおもわれる」(『この国のかたち』6)。
つまり、高尚で難解で抽象的で、現実の生活に関係ない思想体系より、彼が見つけた醤油のほうが、日本人の生活を豊かにしたということです。
 仏像やお守りやお札だけが偶像なのではありません。高僧たちの頭の中にある現実とは乖離した抽象的な思想・概念も偶像です。その概念を後生大事にし、それを誇りにして生きても空しいだけです。司馬遼太郎は「空論」だといっています。
 このことは私たちクリスチャンにもいえることです。「神の国」は頭の中の「空論」ではありません。西洋の合理主義神学のように、それを抽象的な概念にしてはなりません。神の国は現実に体験できる喜びの世界です。救い主キリストの恵みは、生で味わえるものです。御言葉は生活の中に生きて働く力です。頭の中で考えて理解して終わりなのではありません。