左脳か右脳か

右脳と左脳の働きについて、お聞きになったことがおありかと思います。右脳は感性、言語、芸術、詩、宗教・・・などに関わり、左脳は理性、思惟、計算・・・などの働きをするというものです。右脳は主観的、左脳は客観的であるともいいます。こう聞くと、人間は、二つの脳を操る生き物として創造されたかのように思えてしまいます。
これまで、理性的な働きをする左脳を、感性的な右脳の上に置く傾向がありました。右脳が導いたことも、左脳が客観的に認めなければ、受け入れられないとするのです。入学試験や学校教育でのテストも、左脳の能力判定が中心です。右脳の判断は高く評価されてはきませんでした。
かつて西欧では、左脳が中心的な働きをするとされ、さらには左脳が唯一の働きであるかのようになりました。その結果、学者や思想家は、聖書を人間の理性で受け入れられる部分と、そうではない部分の二つに分けるようになったのです。祈りについても、霊的平安や勇気を求める祈りはOKですが、神の国が地にも来るようにという祈りはNOでした。奇跡の記事はもちろんNOです。倫理的な教えも、理性で認められる命令と認められない命令に分けました。そして、理性で受け入れられる箇所は黒、受け入れられない箇所は赤で印刷した聖書も登場したのです。左脳礼賛、理性万歳の、ばかげた時代でした。
 しかし、最近の研究では、右脳が主導権を握り、感性が判断を導くという結果が出たそうです。左脳は、右脳が下した判断を数字的に処理し、整える働きをするのです。
聖書は、左脳的に読解し、理解し、説明できればいいものではありません。私たちは右脳的に、感性(感情)の喜びをもって、主の創造の働きと計画に参加するのです。それが、神のかたちに造られ、「治めよ、支配せよ」と命じられた意味です。右脳に感謝、感性万歳です(N.T.Wright,”SURPRISED BY SCRIPTURE” IVP2004)。
「いや、私は右脳も左脳もどちらも自信ない」と言われる方もおられるかもしれません。しかし、人間は、二つの脳だけを操る生き物として創造されたのではなく、手も足も、体全体を働かせるものとして生かされています。そうして主に仕えるとき、意識せずとも、両脳をともにしっかり働かせています。