だから復活を信じる

私たちは、主イエスの復活を歴史的事実であると確信しています。イエスの復活はただ一度のことでもあり、検証はできません。ですから信仰による確信です。でも、もしイエスの復活がなかったら、説明できないことが数多くあります。その一つを紹介しましょう。
 主イエスの時代の前後、ユダヤでは、「メシヤ運動」や「預言者運動」がたびたびおこりました。でも、そのすべてが例外なく、首謀者(しゅぼうしゃ)の死とともに消滅しています。たとえば、『使徒の働き』にこんな記録があります。「先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました」(5:36)。
 ところが、ナザレのイエスの「メシヤ運動」だけは違いました。ユダヤの宗教権力者やローマという絶対的な政治権力者によって、イエスは十字架刑で葬り去られましたが、このグループが「あとかたもなくなる」ことはありませんでした。
むしろ、イエスの死後、信者が男だけで120人ほどだったこのグループが、一日にして三千人を越えるまでにふくれあがり、「教会」としてスタートしたのです。しかも、この「メシヤ運動」の中心は、依然として、死んだはずのイエスでした。イエスの弟子や信者たちは、「イエスは復活した」「復活のイエスに出会った」と証言したのです。
当然、ユダヤの権力者たちは教会を潰(つぶ)しにかかります。使徒ヤコブや執事(しつじ)ステパノらなど、多くの信者が次々と殺されます。にもかかわらず「イエスは復活した」という証言を取り消しませんでした。迫害されても武器を抵抗することはありませんでしたが、教会は雪だるま式に大きくなっていったのです。もし、最初の弟子や信者たち(500人以上)が復活のイエスに出会ったというのがウソであるなら、彼らは全員そのウソのために命をかけたことになります。弟子たちはみな臆病者でした。イエスの復活が本当なのでなかったら、命をかけるような人たちではありません。復活を目撃したことが彼らを変えたのです。
イエスの死から二千年たった今、私もイエスの復活を信じる群れの中にいます。それで殺されることは今のところありませんが、バカにはされます。しかし、バカにされても、復活を信じます。復活がないなら、人間存在は絶望であり、人生は無意味だからです。