学び祈り交わり

GCC礼拝が始まって、15年目に入りました。GCCは設立当初から、もっぱら聖書の学びに励んできました(使徒6:3)。そして、祈り、賛美を大切にし、ともに食事をすること(信徒の交わり)を喜びにしてきました。今後も、これを継続し、そこに注がれる神の国の祝福を継承(けいしょう)させていきます。みなさんも、それが習慣となるまで、日々、励んでください。
イスラエル・フリードマンというラビ(ユダヤ教の教師)が語った話しです。
国の幹線道路から遠く離れた辺鄙(へんぴ)な地域に、小さなユダヤ人町がありました。辺鄙(へんぴ)で小さいとはいえ、共同体としての生活に不可欠な施設はすべて整っていました。会堂、学校、浴場、共同墓地、病院、裁判所もありました。服屋、靴屋、大工、石工などの職人も住んでいました。しかし、一つだけ足りないものがありました。時計屋です。
長い年月が流れるうちに、住人たちの時計は狂い始め、正確な時間が計れなくなりました。彼らの多くは、ゼンマイを巻くことを止め、そのまま放置するようになりました(昔の時計は、毎日ゼンマイを巻いて時計を動かしていたのです)。しかし、中には、ゼンマイを巻けば動く以上、時計を放置してはならないと考える人たちもいました。そうして毎日巻くという習慣を止めなかったのです。
ある日、その町に時計屋が来ました。住民はこぞって時計を抱えて、時計屋のもとに行きました。しかし、時計屋が修理することができたのは、毎日、ゼンマイを巻かれて動いていた時計だけでした。放置されて止まったままの時計は、錆(さ)びついて直せなくなっていたのです(A.J.ヘッシェル『神と人間のあいだ』教文館2004)。
断続的になったとしても、みことばの学びは続けましょう。2、3日、祈ることを忘れても、そのまま止めずに、また始めることが大切です。続けていれば、必ず実を結ぶ日が来ます。聖霊の火が心に熱く燃える時がきます。ただし、たくさん学んでも祈ったことにはなりませんし、長時間祈ってもみことばの学びの不足を補うことにはなりません。両方、同時に必要です。賛美や交わりについても同じです。すべてに馴染まれますように。