アルツハイマーの母の朗読

先日、母が入院したというので丹波に帰省しました。医師との面談で、胆管に腫瘍ができており、90歳という高齢を考えると、手術は非常に困難だと、告げられました。また、母は20数年来、心臓にペースメーカーをつけていますが、その電池もあと2か月で切れることがわかりました。最善の処置をしても半年くらいの命であるとのことでした。
 母は、80歳を過ぎたころからアルツハイマーの症状が出始め、一時期、記憶の混乱から感情的に不安定になりました。しかし、グループホームに入ってからは心も安定し、本来の穏やかな性格を取り戻しました。計算ドリルもこなし、葉書も書き、聖書も少しは読んでいたようです。礼拝にも、車のお迎えがあれば、出席していました。
 今回は、いつもより長めに母と向かい合いましたが、やはり5分前のことは忘れてしまいます。会話しても、同じ内容の繰り返しでした。子供たちの名と安否、年齢、家のことを何度も問う母に、私は何度も答え、逆に問い返しました。それを根気よく続けました。
 ところが、面白いことが起こりました。母に聖書を開いて詩篇23篇を朗読してもらうと、まるで記憶しているかのように、最後までよどみなく早口で読み上げたのです。「へえ、すごいじゃない」と驚くと、「お前が前に来たときも、ここを読んだ」という返答。へえ、そんなことを覚えてるんだと感心し、「詩篇23篇を、毎日、声に出して読むんやで」と念を押しました。ところが、母は私のその言葉でスイッチが入ってしまい、先ほどの朗読を寸分違えず再生するのです。「すごい、すごい」とほめると、「前来たときもここを読んだ」。「そうか、じゃあ毎日、声に出して読むんやで」。その言葉にまたスイッチが入り、3回目の朗読が始まりました。これでは、果てしなく朗読が続きます。
 私はふと、『伝道者の書(コヘレト)』の世界を思いました。この世は同じことの虚しい繰り返しであり、「すべての事はものうい」(1:8)。生きたことは生きなかったことと同じになり、「日がたつと、いっさいは忘れられてしまう」(2:16)。罪の世界とは、まるでアルツハイマーという病気のようです。しかし、母の朗読を聞きながら、「主のことばは、とこしえに変わることがない」(Ⅰペテ1:25)、主によって私たちの義はとこしえに堅く立てられるのだと、改めて思わされました。残された日数の少ない母の朗読が、慰めになりました。