葡萄畑と狐

「一匹(いっぴき)の狐が、周囲に垣(かき)をめぐらした葡萄畑を見つけて中に入ろうとしました。でも、中に入る穴(あな)が狭(せま)かったので、3日間、何も食べず、体を細(ほそ)らせました。そうしてやっと穴をくぐることができ、思う存分(ぞんぶん)食べました。ところが、外へ出ようとすると、太ってしまった体が穴を通りません。しかたなく、また3日、何も食べず、体を細らせて外に出ました。」
 古代イスラエルの「ミドラッシュ(聖書注解書)のコヘレト・ラッパー5・14」に出てくるお話です。イソップよりもはるかに古いものです。
 さて、外に出た狐は、後ろを振り向いて葡萄畑をにらみつけ、こう言いました。
「葡萄畑よ。おまえは私にとって何の役に立ったのか。おまえの葡萄の実は、いったい何なんだ。実は甘くておいしいが、それが何の益になるのか。おまえの所に入っても、入った時と同じ姿で出て行かなければならない。」
人はこの世に裸で生まれるときは、「何もかも私のもの。すべて手に入れよう」とでも言いたげに、両手を固く握りしめている。しかし、世を去るときは、「この世では何一つ得られなかった」とでも言うかのように、両手を広げて死んでいく。ミドラッシュは、そう告げています。
聖書は、この世で何を蓄えても、結局、何の意味も価値もないことを教えています。
「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない」(伝道者—コヘレト1:2、3)
主イエスも「愚かな金持ち」のたとえ話で、こう警告しておられます。
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(ルカ12:15)。あの狐の空腹の姿は、主が言われる「自分のために蓄えても、神の前に富まない者」(12:21)の空虚と同じです。
ヨブの叫びにも耳を傾けましょう。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)。
真の豊かさとは、神の国に生きること、主とつながって今日を喜ぶことです。