災いから学ぶ

NHK歴史番組でお馴染みの磯田道史氏が、著書『徳川がつくった先進国日本』で、江戸時代には4つの転換期があったと論じています。そのいずれもが国難を契機としています。
まず、島原・天草の乱(1637~8)。一揆の総勢23000~37000人が女子供まで殺戮され、幕府側も8000~12000の死傷者を出しました。日本の人口1500万の時代です。島原・天草は人口が激減し、農村は荒廃しました。農民を失って困ったのは武士です。その結果、武士の間に、「愛民思想」が芽生えます。人殺しが普通の時代であった戦国時代が終わりを告げ、人命を尊ぶ時代に入ります。
第二は、1707年の宝永の地震、津波、富士山爆発です。いわゆる東海、東南海、南海地震です。人口36万の大坂だけでも地震で564人、津波で7000人を超える死者を出しました。それまで各地で新田開発が進み、人口は3000万になっていましたが、経済、人命大打撃です。以降、身の丈にあった豊かさを求めるようになり、安定した成熟社会に進みます。識字率が高まり、農民からも農書や地方史を著わす多くの知識人が出るようになります。
第三は、1783年の浅間山噴火に端を発する天明の大飢饉(~87年)です。餓死で、6、7年の間に人口が百万近く減少しました。幕府や藩の間に民を救う政治が広がっていきました。
そして、1806年の露寇事件です。1792年にロシアのラクスマンが根室に、1804年レザノフが長崎に通商を求めてきましたが、幕府はこれを拒絶。そして2年後、ロシアのユノナ号が南樺太の松前藩の施設を襲撃、全焼させるという事件に発展しました。この事件をきっかけに、2百年戦うことを忘れていた武士に、国を守るという意識が生まれ、外交政策の転換がなされたのです。それがペリー来航時の予行演習になりました。
こうした国難が、欧米列強が押し寄せる近代への準備をさせたというのです。
私たちも信仰によって、患難を将来の希望に変えていくことができます。パウロは言います。 「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3、4)。