主を「喜ぶ」ことから始める

「まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している」(詩篇33:21)。
パウロは、「いつも喜んでいなさい」(Iテサ5:16)と奨励します。順境の時も、逆境の時も喜びなさいと。喜ぶことは、私たちの心と体を健康にします。
では、何を喜ぶのか。主を喜びます。
私たちは、あらゆる喜びの出発点を「主を喜ぶ」ことに置きます。今日の一日を「主を喜ぶ」ことから始め、「主を喜ぶ」ことで終えます。その日々を積み重ねていけば、一年も「主を喜ぶ」ことで終われます。その喜びは、周囲の人々も巻き込みます。
どのように主を喜ぶのか。愛する人が側にいることを喜ぶように、主がともにおられることを喜びます。いや、主の臨在はそれ以上の喜びです。主は私の造り主、「私の父」ですから。「父よ。あなたの存在が私の喜びです」と告白します。父の愛と恵みを喜びます。父が下さった全ての良きものを数えて感謝し、喜びます。父の教えを喜びとします(詩篇1:2)。
全ての喜びの源は父にあります。このことを忘れてはなりません。忘れると、「いつも喜んでいなさい」という奨励が実践できなくなります。
地上の喜びはいつまでも続くことはありません。体を動かすこと、見ること、会話すこと、食べることの喜びは、年を重ねるとともに、あるいは病気や不慮の出来事によって、消え去ります。愛する者や親しい人との交流の機会も減り、彼らも世を去っていきます。牧師自身、そうした喜びが減りつつあることを感じます。やがて体が衰えて動けなくなり、脳を使った活動もできなくなるでしょう。一人ぼっちになるかもしれません。
若い人には想像できないことと思います。でも、あっという間に年月は過ぎ去ります。「伝道者(コヘレト)」の言葉を心にとめてください。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。災いの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近付く前に」(12:1)。
年をとっても、体が不自由になって寝たきりになっても、それでも「主を喜ぶ」ことだけは続きます。「主を喜ぶ」ことが全ての喜びの源です。その源だけは残ります。
「災いの日が来ないうちに」「主を喜ぶ」ことを始めませんか。