悔い改めの機会とする

イスラエルではここ5年、旱魃が続き、過去40年で最悪だそうです。イスラエルには海水の淡水化や下水再利用技術があり、日常生活に影響はないのですが、農業が必要とする雨量の47%にとどまる見通しです。ついにラビ(ユダヤ教の教師)らが、「神はユダヤ人を怒っておられる。断食と悔い改めで神に祈れ」と呼びかけました。政府のアリエル農業相も、嘆きの壁で、神に雨を求める祈り会を行うと発表し、市民の参加を求めました(石堂ゆみ氏「オリーブ山便り」171226。祈りが届いて1月5日は大雨の嵐)。
 現代イスラエルは宗教国家ではなく、民主主義、いきすぎた自由主義の世俗国家です。テルアビブなどの世俗派の人々の堕落ぶりは、ソドムのようです。それでも、国難に際しては、ラビだけでなく、政府からも祈りを呼びかける国なのです。民族の危機に際して、主の御前に断食で悔い改めた聖書時代のイスラエルを思い起こさせます。
 ところで、東日本大震災の時、韓国の趙ヨンギ牧師が、「日本国民は偶像崇拝や物質主義に陥っている。震災は神の警告だ」と述べて、韓国国内からも「非常識だ」「精神病者だ」と厳しく非難されたことがありました。しかし、日本人が偶像崇拝や物質主義に陥っているのは事実です。イスラエルであればこの苦難の機会を捉えて、被災者の救済だけでなく、全国民に悔い改めを呼びかけるラビがいたことでしょう。
 主イエスもこう語られました。「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいる誰よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ13:4、5)。
 この言葉に従えば、東北の人が誰よりも罪深いわけではないし、日本国民も悔い改めなければ滅びます。それは、阪神淡路、熊本大分の震災についても同じです。教会は、涙をもって「我々は悔い改めよう」と、呼びかける立場にあるのだと思います。
私たちはヨブのように潔白で正しいわけではないのですから、悲しみと痛みのどん底でも、それを悔い改めの機会とするぐらいの太い信仰があってもいいのではないのでしょうか。悔い改める者は生きるのです。