体を生きたきよい供えものとして捧げる

「私は、神の憐れみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたの体を、神の受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
 私たちは、心と体、あるいは心と物、心と形に分けて、心を大切にします。
 しかし、「霊的な礼拝(神の御心にかなった礼拝)」とは、心だけを捧げる礼拝のことではありません。むしろ体を捧げることです。パウロは、心を捧げることが霊的礼拝だとは言っていないのです。
 心がこもっていなければならない。確かにそうです。体は来ているけれども、「心ここにあらず」というのでは、霊的な礼拝とは言えません。しかし、心がこもってさえすればいい、というのも聖書の教えではありません。体は別のことをしているけれども、主のことを思っているからOKというのは、主に喜ばれる礼拝ではありません。
体は偶像を礼拝しているが、心は聖書の神に捧げている、だから偶像礼拝ではないと言えますか。心は配偶者に捧げているので、体は別の異性の所に行っていても、姦淫(不倫)ではないなどと言えますか。
 体を、聖い、生きた供え物として捧げるとは、体も心も捧げることです。本来、別々に捧げることはできません。
 インターネットで礼拝するのは、どうしても体を教会に運んで礼拝に出られないときの緊急避難です。しかし、「インターネットで礼拝する方が手っ取り早くていいや」となってしまう危険性があります。今や現代人の生活に合わせて、インターネット礼拝を常時の礼拝にする教会があると聞きます。外国では、AIが礼拝する教会さえ登場したそうです。そうなると、もはや生身の体の礼拝ではなく、霊的な礼拝とはとても言えません。
 聖書は、心と体を分けません。人格とは心のことではありません。心と体は一つです。体を汚せば、心も汚れます。心を汚せば、体も汚れます。心を捧げるときは体も捧げており、体を捧げるときは心も捧げているのです。(パウロが二つを分けて語ることがあるのは、ギリシャ文化の下にいる人たちにわかりやすくするため)。