何で称賛されるか

思考能力、発想力、記憶力、創造力、洞察力、表現力、語学力、計算力、あるいは手や足の技術、運動能力など様々な身体能力・・・程度の差はありますが、人はそれぞれに何らかの能力があります。
それらは、親譲りの生まれつきの能力、努力で培った能力の二つの部分があります。
そしてさらにクリスチャンには各々、第三の能力、すなわち「聖霊の賜物」が与えられています。預言、奉仕、勧め、施し、指導、慈善、知恵や知識のことば、奇跡、癒し、異言、解き明かしの力、霊の判別力(ローマ12、Iコリ12)などです。
 特別な能力や聖霊の賜物を持っている人には驚かされます。そういう人が身近にいると便利です。私たちは、そういう能力の持ち主を称賛しがちです。
 しかし、聖書はちょっと違います。「御霊の実」を結んでいる人を称賛するのです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラ5:22)です。今、GCCではモーセ五書を学んでいますが、モーセは謙遜で称賛されました(民数記12:3)。謙遜も「何か徳とされることや称賛に値すること」(ピリ4:8)の一つです。
 能力を得るために努力し、聖霊の賜物を求めるのは正しいことですし、そうすべきです。しかし、能力や賜物は「教会の徳を高めるために」(Iコリ14:12)与えられているのであって、個人が称賛されるためではありません。「いつまでも残るのは」能力や賜物ではないからです。「信仰と希望と愛です」(Iコリ13:13)。能力や賜物は、信仰、希望、愛を表現するためにあります。へブル書は、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」(11:2)と語ります。
能力や賜物で人に劣っていても、信仰と希望と愛、御霊の実を結ばせることは十分できます。能力や賜物で称賛されるにとどまるのではなく、信仰と希望と愛、御霊の実の何か一つで称賛されることを目指しましょう。主は、それを望んでおられます。