大きく花開くのは、個人主義か共同体か

かつて日本は、親子三代大家族で暮らすのが普通でした。しかし、20世紀の後半、高度経済成長期に核家族化し、そして、その核家族も個人へと解体に向かいました。
同時期、教育現場では、欧米の個人主義のように、「強い個人」を育てなければならないと語られるようになりました。グローバリゼーションの時代は、世界との厳しい競争に勝ち抜かなければならず、「みんなで仲良く共同して」などと呑気なことを言っていたのではだめだ、それでは生き残れないというのです。これからは独りで決断し、自己責任でリスクを負って行動し、勝者が富を独占するのです。そのために勤勉に学び、知識、語学、技術、資格を身に着け、一生懸命働かなければならない。小泉純一郎の政権時代(2001~06)までは、そんな考え方が主流でした。今も根強く残っています。
その時代は、勝ち組と負け組の区分、貧富の差の拡大、若者の貧困化、閉じこもり人口の増加といった社会現象と重なっています。
ところで、自己利益、自己肥大、独り勝ちを目指す「強い個人」や「強いグループ」は、結局は、社会を変革することも、豊かにすることもできないまま、閉塞していきます。自分独りの利益のために働き、自己拡大のために活動しても、大したことはできないのです。人間に与えられている能力は、自己利益を目的にすると開き切らないし、全体としても、他の多くの人々の能力もしぼませることになってしまいます。
人の能力というのは、一個人や一グループの勝利や利益や名誉などを度外視し、共同体や社会や国全体のために尽くそうとするときに、花開き、実を結ぶものです。そして、自分の意志というより、自分はこの働きのために他者から「呼び出された」という確信がある時に、最大限に発揮されるものなのです。
聖書においては、それが神の国です。教会はキリストの共同体、神の大家族です。個人主義者の集まりではありません。キリストに呼び出され(召しを受け)、聖霊によって一つにされ、キリストの栄光を現そうとするとき、個人個人の能力、資産、賜物が最大限に用いられ、社会を変革する力となっていくのです。