個人の損得か、共同体の損得か

今週もまた、藤吉雅春著『福井モデル』(文春文庫2018)から引用します。
 富山市は、高齢者の外出を促すために「孫とお出かけ支援事業」を1年限定で実施しました。祖父母がファミリーパーク、博物館などの施設に孫を同伴するなら入園無料にしたのです。その結果、高齢者は出歩く機会が増えて健康寿命が延び(県の医療負担が減る)、孫のために財布のひもを緩め(地域経済に寄与)、孫との交流機会が増えました。
 ところがです。このアイデアを他県の市会議員が自分の市にコピペしようと考え、市議会に提案したら、「孫のいない高齢者に不公平だ」という理由で却下されたのです。個人の利害が最重要で、共同体全体の福利は度外視です。個人の人権や平等を優先して、批判を恐れ、結局は何もしませんでした。この姿勢が町全体の活性化を阻害するのです。富山市長もあきれていたとのことです。
実は、「孫とお出かけ支援事業」は、「孫のいない高齢者」に損ではありません。得をしていないことは損をしたことではないのです。むしろ地域社会全体が潤うことで、間接的には得になるはずです。共同体や社会が得をするなら、自分も間接的に得をするのだという視点が大切です。
「人は得、私は損。不公平だ」と言っているかぎり、共同体に祝福は広がりません。むしろ全体が貧しくなっていきます。神の国では、個人の損得で考えません。共同体全体の祝福を第一に考えます。神の国では、人が祝福されれば、自分も祝福され、人が豊かになれば、自分も豊かになるのです。
 マタイ20章の「ぶどう園」のたとえで、農園主は、早朝、9時、12時、3時、6時から働いた労働者に、一律1デナリの賃金を支払います。すると早朝の労働者が主人に、不公平だと文句を言います。しかし、実は労働者は全員が得をしています。早朝から働いた労働者も損はしていません。早朝から職にありつけ、契約通りの賃金をもらったのですから得しているのです。労働者全員が1デナリ受け取ったことを互いに喜べれば、全体の幸福度は底上げされます。
個人の損得勘定は全体を貧しくさせ、共同体全体の祝福は個人を豊かにします。