震災の日を覚えて

1923(大正12)年9月1日、10万を超える死者を出した関東大震災から、95年になります。そして、死者行方不明1万9千人弱を数える東日本大震災からは、7年半です。
明治、大正、昭和の国民学校の国語読本に載っていた『稲むらの火』が、2011年度から再び小学校の教科書に採用されているようです。以下はそのあら筋です。
 高台に家を構える庄屋の五兵衛は、地鳴りとともにゆったりと揺れる地震を不気味に感じ、海を眺めると、波が沖へと退き、海岸には黒い岩底が広がっていた。「津波が来る」。しかし、眼下の村は豊作を祝う祭りの準備に気をとられて、誰も気が付かない。「このままでは400の命と村が飲み込まれてしまう」。五兵衛は、松明を家から持ち出し、刈り入れるばかりになっている自分の田の稲むらに、火をつけて回った。火は夕暮れの空を焦がした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。
 「庄屋さんの家が火事だ」。駆け上って来た村の若者20人ほどが、稲の火を消そうとするが、五兵衛は大声で命じた。「放っておけ。村中の人をここまで来させよ」。五兵衛はあとからあとから登ってくる老若男女の数を一人一人数えた。そして、叫んだ。「見ろ。やって来たぞ」。
 遠く海の端に一つの線が見えたかと思うと、見る見る太く広くなり、ものすごい勢いで迫ってきた。海水が山の絶壁のように、百雷の轟とともに、陸にぶつかった。水煙が高台まで突進してきた。それが二度、三度繰り返されると、村は跡形もなく消えていた。
稲むらの火は、夕闇に包まれた周辺を明々と照らし出していた。村人は静まり返っていたが、我に返ると、この火で救われたことに気がつき、ただ黙ったまま、五兵衛の前にひざまずいた。
 ―――以上は、1854年の安政南海地震の津波の際の出来事をもとにして、書かれた物語です(小泉八雲が書いた小説の英訳)。危機が迫っていても目の前のことに没頭している人々を救いに導くには、言葉でその危機を知らせ、説得するだけでは大きな効果はなさそうです。ある程度、自分の大切なものを犠牲にしなければならないということです。多くのものを得るために、何かを失う覚悟です。