さすがに今日、個性、個性と叫ぶ人は少なくなりました。「個性重視」「自分らしくあれ」という教えは、一時代の流行にすぎませんでした。なぜか。「個性」には永遠の価値はないからです。
 真の価値とは「いつまでも残るもの」(Iコリント13:13)です。「個性」は、その人とともに消えていきます。残るのは、普遍性と持続性のある「型」です。
スポーツ、武道、囲碁、将棋、茶、文章作法、詩作、生け花などの世界おいては、最初は「型」を学ぶことから始まります。「型」はその道の多くの先人が、知恵と体験で築いてきたものです。その型から始めなければ、心身の成熟や能力の開発は、前には進みません。どんなにチャンバラごっこをしても剣道は上達せず、殴り合いの喧嘩に明け暮れてもボクシングで勝てるわけではありません。どんなに才能に恵まれていても、自己流では大成できないのです。
「型破り」というのは、「型」があっての話です。普遍性があって、個性もかろうじて成り立ちます。個性は普遍的なものに依存しているのです。価値があるのは、普遍的で持続するものであって、個性ではありません。世界を成り立たせているのは「型」であって、個性ではないのです。
ところが、教育において、「型にはめる」のは良くないとし、「個性重視」が強調されました。「好きなことを、思うまま、自由にやりなさい」「自分らしさを発揮しなさい」と教えたのです。自分のしたいことをして個性だ、人権だと言い、破壊的なことを正当化するのが、今の日本の現状です(何を指して言ってるのか、察してください)。
 ところで、信仰生活も、聖書の読み方も祈りも、賛美の仕方も、ちゃんと「型」があります。自己流で聖書を読み、祈り、賛美をしても、正しい成長は期待できません。祈りは「主の祈り」があります。信仰告白には、申命記6:4、マタイ16:16があります。使徒信条もそうです。賛美には詩篇があります。聖書の学び方は、「三つのテーマ」であると私は確信しています。
「自分独自」という考え方を置いて、まず、「型」をしっかり固めることが、ぶれることのない生き方を建て上げます。