旗を立てたい

ゴールの旗が見えない ウサギのように走っても 亀のように
歩いても 
ゴールがなければ 競争にはならない
競争するのがいい というわけではない できれば人生に勝敗は
つけたくない それでも ねえ誰か 魂がふるえるような 
旗を立ててくれないか

二十歳の若者の「旗」と題する詩です(産経新聞180819)。
 人と競争をして、勝ち負けをつけたいわけではありません。人に勝利した快感なんて、ほどなく消えてしまいます。でも、ゴールの旗がなければ、一生懸命走る気力が湧いてこないのです。しかも、「魂がふるえるような旗」でなければなりません。
 今世紀初めの小泉純一郎政権の時代、「競争に勝ち抜く強い個人」を輩出する教育が施行されました。その結果、社会は勝ち組と負け組に分かれ、貧富の差が拡大しました。しかし、この詩を書いた若者にとって、自分のための利益を追求することは、「魂がふるえるような旗」を目指す生き方ではなかったようです。
ところで、パウロは、「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません」(Ⅰコリ 9:26)と語っています。その決勝点とは何か。「朽ちない栄光の冠」です。しかし、この地上でも、「魂がふるえるような旗」を立てたいと思いませんか。この国のこの時代に「自分」に生まれたクリスチャンの「私」が目指すべき、目に見える「決勝点」です。そのためなら、「あらゆることについて自制し」(25)、全力を投入できるゴールです。
 でも私たちは、そんな「旗」を、個人として以上に、GCCの共同体としても建てたいと願っています。「自分個人のため」に努力しても、そんなに大きなことはできません。しかし、共同体のためなら、より偉大なことが果たせます。自分のためなら、苦しくなればいつでも放棄できますが、共同体のためなら、力を惜しまず、困難でも簡単にはあきらめられません。役割分担と互いの期待感が、ひとりひとりの賜物を開花させることになります。「旗」に向かって、ワクワク感が高まっていきます。
 私たちは、そんな「魂がふるえるような旗」を、そろそろ立てたいのです。