善い行いが日常に

石堂ゆみさんが、『オリーブ山便り』に、こんなことを書いておられます。 ヘブル的価値観では、障害がある人を下に見ることはない。その人も神の支配の中でそうなったのであり、障害があるからといって「役立たず」とは本人も周囲も考えない。なので、障害を持つ人も世話をしてもらって当然とはせず、自分にできることを考え、周囲も同情とは異なる視点で彼らを支援する。障害者が助けを必要としているのに気づけば、特別なことではないかのように、手を差し伸べる。 支援した人々は、何か偉いことをしたような気にもならないし、神からの報いや祝福を期待することもない。ここが、基本的に神の支配の中にいるヘブル的価値観(聖書的)と、人間の価値観で回っている国々との違いかもしれない・・とイスラエル人を見ていて思わされる。  先日、バス停でバスを待っていると、止まったバス内に携帯で話している男性が見えた。彼は乗ろうとする車椅子の男性に気がついた。すると、そのまま携帯で話しながら、車椅子用乗降板を下ろした。車椅子の男性はそれを利用してバスに乗り込んだ。携帯の男性は、携帯で話しながら乗降板を戻した(イスラエルではバス内携帯使用可らしい)。 車椅子の男性と携帯の男性の間に会話はない。携帯の男性は、当たり前のことを当たり前にやっただけであって、車椅子の男性も、「すみません・・」と頭を低くすることもない。双方、日常なのである。なんともすがすがしい光景であった(編集)。  もちろん文化が異なるので、日本では「ありがとう」と感謝を表す方がいいでしょう。実際、イスラエル人は親切にしてもらって当然という態度をとるので、外国人には不快感を与えてもいます。しかし、イスラエルにおいては、それが歴史や文化に基づく日常なのです。  聖書の教えは、寛容、親切、善意、柔和が日常になることです。それは、主日礼拝、日々の御言葉の学びと祈り、信徒同士の交わりによって培われます。