最低限か最大限か

「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」。『論語』にある孔子の言葉です。旧約聖書外典トビト記には「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(4:15)とあり、主イエスの時代の律法学者ヒレルも同じことを言っています。日本人がよく口にする「人に迷惑をかけてはならない」というのも、それに近い戒めでしょう。これらはすべて、人間として最低限なすべき事を教える道徳です。 しかし、主イエスは違います。最大限のことをしなさいと教えます。 「あなたを徴用して1ミリオン行けと命じる者がいれば、一緒に2ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)。 強制されたことをいやいや行うのではなく、それなら進んでその倍をしてあげなさいというのです。いやいや行うなら、いつまでも喜びは生まれません。しかし、自分の意志で、その時その場で自分ができる最大限のことを行うなら、喜びが湧き上がってきます。 主イエスはまた、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12)と教えられました。 「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしない」のと「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもする」のと、どちらが、喜びを生むと思いますか。「人に迷惑をかけなかった今日の自分はスバラシイ」と喜べるでしょうか。そんな自分を喜んでいる人がいたら、ちょっと引いてしまいます。むしろ、最大限のことを人にして差し上げることができて、心に喜びが満ちるのではありませんか。人間はそのように造られているからです。 「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです」(エペソ2:10)。 「嫌なことをしない」ということだけで歩むか、最大限に「善い行い」をすることを楽しみにして歩むか。主は、私たちの心に喜びが生まれる「善い行い」を用意しておられます。 ~