私の愛するもの

雅歌(共同訳) 2:10 私の愛する人は、語りかけて言います。「恋人よ、さあ、立ちなさい。美しい人よ。さあ、来なさい。」 7:11 私は愛する人のもの。あの方は私を求めています。  雅歌は、若者と乙女、ソロモンとシュラムの女の愛の歌であり、主とイスラエル、花婿キリストと花嫁教会の比喩とも、とらえられています。  いずれにせよ、雅歌には、「主の心」が語られていると考えられます。 私たちも、主を、「私の愛する方」と呼びます。そう呼びかけることで、「主の心」に入っていけます。 「私の愛する方(人)」とは、ヘブライ語でドゥディ(דוֹדִי)と言います。その語根には、「沸く」「沸騰する」という意味があり、「情熱的であふれ流れるような愛で愛する方」といえましょう。しかし、単に感情にとどまるのではなく、常に愛を表現する時と場を探している行動的な愛です。 ダビデ(DAVID)の名は、このドゥディ(דוֹדִיDOWDI)から来ていますが、ダビデ(DAVID)の主に対する愛は、まさに「沸騰する」ような愛でした。 また、ヤディヤド(יַדיד)も、ドウディから来ていますが、יַד(ヤド)手を二つ重ねた表現で、「手と手をつなぐ」ことを意味しています。 古代、右手のひらに心があるとされ、右手を互いに重ね合うことは、心と心を重ね合うことでした。握手には、現代よりも深い意味があったのです。 タルムードにこんな話があります。 一人の王がいた。王は息子と意見が合わず、息子は父の家を去り、別の王国に行って住んだ。年月が流れ、王は使者を息子の所に送り、帰って来るように要請した。息子は「帰るには遠すぎる」と返答した。王は再び、使者を息子の所に送り返して、言わせた。「ならば、帰れるところまで帰っておいで。私がお前を迎えに行こう。」 主イエスは私たちの「ドゥディ(דוֹדִי)」であり、「恋人よ、さあ、立ちなさい」「さあ、来なさい」と言って、私たちを迎え出て、「手と手をつないで」くださるのです。