自分の心を映し出すスマホ

「知人が自動車事故に巻き込まれ、負傷しながらも自力で車外に脱出したら、10人ほどの通行人がスマホで撮影していた。誰も救助しないし、大丈夫ですかとも、声をかけなかった。他人事のように、負傷者を無言で撮影する人の群れは不気味である。災害で、(濁流に)流されていく私が最後に見るのは、スマホを向ける人というのではやり切れない」(読売新聞「気流」の読者投稿190616)。 他人の不幸をシャッターチャンスとしかみなさず、撮った写真を知人に送ったり、SNSに投稿したりする人たちがいます。負傷者の目には、冷酷無情な人たちとしか映らなかったことでしょう。ブラック漫画の一コマのような、おぞましい光景です。 スマホで写真が何枚でも撮れるようになったことで、こんな無情な人が増えたのでしょうか。それとも、もともと無情な人々の心をスマホが映し出すことになったのでしょうか。 もし事故の場面で、子供が「怪我している人たちを助けてあげて」と叫んだら、「無言で撮影する人の群れ」はどうなったでしょうか。おそらく3つに分かれます。写真を撮るのを恥じて助ける人、それでもスマホを向け続ける人、そして、こそこそその場を立ち去る人。正しい言葉が、人々の心を浮き彫りにするのです。 主イエスがこう言われました。「そういうわけで、あなたがたの子らがあなたがたをさばく者となります」(ルカ11:19)。「裁く」(クリノ―)というギリシャ語には、「分ける」という意味があります。イエスのメシアとしてのご性質、イエスのなさる正しいわざ、真理の言葉の前に、人々はさまざまに分かれていきました。イエスを裁くことは、自分自身を裁くことになるのです。 「撮り鉄」やインスタ映えを求めて写真を撮る人たちのマナー違反が、よく指摘されます。私たちも写真を撮るとき、自分の心も撮られていることを意識したほうがいいですね。