主を畏れる

テレビの報道番組で、虚偽、詐欺、暴言暴力、不倫など、不正事件や不祥事がとり上げられるとき、キャスターやコメンテーターは常に「正義の味方」です(関西・朝日放送にずばり「正義のミカタ」という情報番組がある)。自分は不正を犯さない潔癖な人間であるという顔で語ります。そして、「では、CMのあと、今日のスポーツです」とあっけらかんと話を切り替えることもできます。仕事上、仕方がないことではあります。しかし、心の奥に恥じるものが微塵もないなら、恐ろしいことです。  …と、書いている牧師の私自身も、講壇で似たようなことをしています。自分が怖くなります。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです」(ヘブル 4:13)から、ただただ、へりくだるほかありません。  もう20年以上も前のことですが、ある教会の役員が、「私は今まで何一つ、恥ずべき事をしたことがありません」と、言ってのけたことがありました。周囲は唖然としました。「ああ、言っちゃったなあ」「いや、この人なら言うかもなあ」。いったい何を基準にして自己評価しているのか。クリスチャンの口からは絶対に出てこない言葉です。「この人には何を言っても、気付いてはもらえない」という諦めの空気が漂いました。 「彼らは、生きている者と死んだ者を裁こうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります」(Ⅰペテ 4:5)。その日が来ることを忘れてはなりません。「主を畏れる」ことを忘れると、人は高慢になります。時には、とんでもない言動をしてしまいます。そんな罪性を残している自分が怖くなります。 さて、今日は「アナニアとサッピラ夫婦が聖霊を欺く事件」から学びます。全知なる神の前では何を隠しても無意味です。正直が一番安全です。いつも聖なる方を目の前に置いて自分自身を見る、という習慣を身に着けようと思います。