人間の目には見えない世界

十代半ばのころ、私の視力は2.0以上だったと思います。びっくりされるほど、遠くが見えていました。ある年、福井県小浜の教会でクリスマス・イブ礼拝を捧げた帰り道、京都府との県境の峠で車を降り、凍てつく夜空を眺めたことがありました。雲一つない、満天に輝く星に圧倒されました。宇宙のすべての星が見えたかのような感動で、しばし動けませんでした。一緒にいたフィンランドの宣教師に、「ここに置いて行きましょうか」と、からかわれたほどでした。  しかし、高校3年の時、視力は0.2まで落ちました。以来、満天の星に遭遇しても、ぼんやりとしか見えなくなってしまいました。メガネをかけても、やっと1.2です。  ところで、人間の目はどんなに視力があっても、実は、曖昧にしか見えていません。2.0も0.2も大した差ではないのです。たとえば、月から地球を眺めても、どの目も青く静かに輝く星を見るだけで、家々が見えるわけではありません。動き回る人間も、顔も、目も、毛穴も、細胞も見えはしないのです。ましてや細胞の中の分子など論外です。それが人間の目なのです。  また、水を飲むとき、私たちは透明な液体しか見ていません。しかし、コップ1杯の水には、10×6×10の23乗(0が23個)の水の分子が騒々しく動いています。それは人間の目には見えません。人間の目は曖昧でしかないのです。  さて、人間の五感は曖昧でしかないので、この世界を曖昧にしか描くことはできません。でも、もし、この世界全体を原子のレベルで観察することができたら、過去と未来の違いは消えてしまうのだそうです。「原因と結果」の区別もなくなります。逆に言えば、曖昧にしか見えないからこそ、「過去と未来」「原因と結果」の区別が生じているというのです。それが、現代物理学が到達した結論です(カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』による)。 言えるのは、人間の目は一部分をぼんやりとしか見えないこと。しかし、創造主は、マクロからミクロの詳細まですべてを見ておられるということです。それゆえ、神には、過去も未来も、原因も結果も同じです。それが、ヨブが向かい合った神です。