葬儀なしに埋葬?

新型コロナウイルスで亡くなった女優岡江久美子さんのことが、一時話題になりました。遺族は葬儀を許されず、火葬にも立ち会えませんでした。日本では、感染防止のため24時間以内に、しかも火葬場の稼働時間外で荼毘(だび)に付すのが厚労省の決まりです。900人弱のコロナ犠牲者も、家族の面会や葬儀もなく火葬されたと思われます。

ところで、今回のパンデミックは、ほぼ医学(疫学)か経済の二つの視点で論じられています。つまり、命か、お金か、です。その狭間で均衡をとりつつ、非常事態宣言を出したり、解除したりするというわけです。

 いずれも判断基準は数字です。疫学的には感染者数、死者数など、経済的には減収率、倒産件数、失業者数、給付金額などです。

 しかし、別の視点もあります。その一つが哲学です。イタリアのジョルジョ・アガンペンという哲学者が、「死者の権利」を無視すること、つまり死者を葬儀なく埋葬することに疑問を投げかけました(NHKBSで放送)。

イタリアは4万人の死者を出しました。納棺された遺体が、まとめて大きな穴に埋められていく映像が、テレビに流れました。葬儀はなく、遺族も立ち会えませんでした。そして、だれもこれに異議を唱えませんでした。感染を食い止めるためには、仕方のないことだからです。

しかし、アガンペンは、「死者の権利」を認めないことに、何の疑問も感じないまま突き進んでいっていいのかと、問いかけたのです。地上に生存していることが至高の価値だとする社会。死者に何の敬意も払わない社会。そんな社会は、この先、どうなってしまうのか、と。

では、どうしろというのか。アガンペンは、葬儀なく埋葬することに反対しているのではなく、それは異常事態での異常な処置なのだ、ということを忘れるな、というのです。疫学上、合理的に処理するのは当然でしょう。しかし、それが社会の正常な姿だと考え、それに慣れてしまうなら、人間の尊厳を失ってしまうことになるのです。

疫学的、経済的な視点でのみ合理的に解決するのが普通だと考え、疑問に感じないなら、体の命以上に大切なものがあることを忘れていく危険があります。人間の体はモノではないのです。