人間原理でいいのか

現代の宇宙論では、時間も空間も物質もないまったく無の状態から、物質と反物質のエネルギーの波が生まれては即消えるという「真空の揺らぎ」が繰り返されているうちに、何かの拍子に何かが起こって、ビッグバンとなり、宇宙が始まった、とされます。仮想現実(バーチャルリアリティ)が「何か」によって突然現実になったというのです。では、何が起こったのか。それはわからないというのが宇宙論の現状のようです。
 また現代宇宙論では、宇宙は一つではなく、理論上は無数にあるとされます。しかし、宇宙が無数でも、人間を生み出さない宇宙は、誰にも観察されない、不気味なゴースト空間です。私たちの宇宙には、少なくとも知的生物である人間が存在しています。ところが、ある限られた、非常に都合の条件を満たした宇宙でないと、人類を生み出せないというのです。逆に言えば、この宇宙は人間を生み出すにちょうどいい、さまざまな物理的条件が整えられている、ということです。
 それゆえ現代宇宙論は、人間の存在を条件にして宇宙論を構成するという方向に進んでいるそうです。これは「人間原理」と呼ばれます。つまり人間中心に宇宙を解釈していく、ということです(池内了『宇宙論と神』集英新書2014参照)。
 しかし、天文・宇宙物理学者の池内了さんは、「宇宙の物理定数は人間ごときを参照にして決まっているとは考えられず、もっと深遠な理由があるはず」「人間を基準にして宇宙の秩序が定まっているとは思えない」と懐疑的です。そして「果たしてそんなに性急に神を追放してよいのだろうか」と述べています(聖書の創造神のことではなそうですが)。
ところで、池内氏は「宇宙論(つまり宇宙解釈)は時代を映す鏡である」と言います。それは聖書解釈もそうです。先日、「天地万物は人間のために造られ、存在している」というある牧師の聖書講義を聞きました。聖書を人間中心に読み解くのです。「人間原理」の聖書解釈は、宇宙論と同じく、現代の風潮です。しかし、コロサイ1章16節は、それに対してNOを突きつけます。